この本の【特集 女はどこにいるのか】の冒頭に、
上野千鶴子さんのインタビュー記事(P56~64)、
「ケアすること/されること」が掲載されています。
このインタビューの際には、わたしも同席させてもらいました。
上野さんと編集者との、ナマの話を聞けて感動したのはもちろんですが、
文章になったものを、あらためて読みなおすとこころに響きます。
そしていつものことだけど、
上野さんの、目線の低さとあたたかさに、共感します。
インタビュー「ケアすること/されること」の一部を紹介します。
ケアという名のもとに何が行われているのかを考える際に、ケアには、「ケアとは、ケアの与え手とケアの受け手との間の相互行為である」というはっきりした定義があります。ケアとは相互行為の場で発生するアクションですから、行為の場面から切り離してモノのように取り出すことができないものです。相互行為にはかならずふたりの当事者がいます。すなわち、ケアの与え手とケアの受け手というアクターがふたりいて、この複数のアクターのあいだの、臨床的な相互作用の現場で起きる行為をケアと呼びます。だから、この双方にとって満足がいき、納得がいくケアでなければ、よいケアとは言えません。これが私の「基本のき」です。」
P63・・・・「わたしがとりわけ協セクターに対して関心を持っているのは、彼女たちのケアの質に信頼を持つ手入るからです。彼女らは、業者間の競争に勝ち抜いて、生き延びられると思います。彼女たちには、利用者から選ばれる自信がある。これまでも、それだけのことをやってきていますから。」
「わたしがつきあってきた協セクターの担い手たちは、本当に信頼のおける人たちでした。この人たちになら、自分の下の世話も含めて、わたしの看取りまでを委ねてもかまわない、と思えるような人たちでした。そういう希望を自分が持つことができるようになったというのが、この志(こころざし)型の協セクターの人たちの実践介護です。」
P64・・・・「『自己決定』について話をすると、いつも出てくる質問があります。それもきまって男性高齢者から出てくる質問です。死の自己決定はあるか、という問いです。・・・・・・そういう問いを聞くと、わたしは違うなあ、といつも思います。当事者主権は生存のための権利であって、死のための権利ではない。生まれることに自分の意志が介在したでしょうか。予定して生まれたわけじゃない。予定して病気になったり、障害を持つわけじゃない。予定したように生まれ生きて、老いて、障害を持つわけではないのなら、なぜ死だけを予定して決めることができるのか。わたしは傲慢だと思う。」
「こんなになってまであなたに生きていてほしい、と自分でない誰かに対して、自分が思えるか。あるいはこんなになってまで生きていてほしい、と自分でない誰かに思ってもらえるか。自分に対しても他人に対しても、そういうふうに思えない人が、悲しいかな死の自己決定ということを考えざるを得ないところに追い詰められるのでしょう。それも、ほんとうに自分の意思からというよりも、さまざまな配慮から。」
「当事者主権とは、死ぬための思想ではない。よく生きるための思想なんです。」
「終わりに、『現代思想』がケアをとりあげることになったことに感慨を覚えます。ケアは本能でもなければ、自然現象でもない、歴史と文化とそれに政治に規定された社会現象です。そしてケアをどのように社会に再配置するかには「思想」が問われます。理念なしにケアは語れませんし、今ケアの現場こそ、新しい「思想」が日々の実践の中から生み出されているもっとも刺激的な現場ではないでしょうか。」
参照「生き延びるための思想」上野千鶴子~『atあっと』0号
特集「女はどこにいるのか」の他の記事も、
とてもおもしろくて夢中で読んでしまいました。
ちょっとむずかしい月刊誌ですが、
9月号は、ぜったいおススメです。
売り切れないうちに本屋さんに走って、
ぜひ手にとって、お読みになってください。
みどりの一期一会!
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