『生き延びるための思想 ジェンダー平等の罠』
(上野千鶴子著/岩波書店/2006)
「はじめに-あげた手をおろす」から、
補論「生き延びるための思想」
「あとがき-「祈り」にかえて」までの、
10章からなる論集である。
「あげた手をおろす」は、2001年の秋、
さいしょに「日本女性学会」のニュースレターにのった。
「暴力はいらない。テロにも戦争にも反対。」
と9・11のあと、声をあげて行動していたわたしは、
このエッセイを多くの友人にコピーして配った。
「はじめに-あげた手をおろす」
21世紀は「9・11」で幕を開けた。「9・11」で世界は変わった、という。ほんとうだろうか?
世界にはたくさんの「9・11」がある。無法な暴力で踏みにじられた記憶。たくさんの忘れられた「9・11」のなかで、なぜ、この「9・11」だけが特別に記憶に値すると、考える人々がいるのだろうか。
20世紀は戦争の世紀だったが、21世紀は市民戦争の世紀だと言った人がいる。前線なき戦闘。宣戦布告のない戦争。見えない敵。日常生活が一瞬のうちに戦場と化す。
平和な生活手段が凶器に変わる。それもいわれのない悪意や憎悪によって、圧倒的で理不尽な暴力に遭う。この「9・11」が特別だったのは、標的がアメリカという国家だったことだ。そしてこの国家は、見えない敵に向けて、世界でいちばん豊かな国の国家暴力を動員した。
たたきのめせ、という声が聞こえる。やってしまえ、という大合唱が起きる。そう言えるのは、強者の権利。強大な軍事力という危険な道具を手にしたもののおごり。報復は、その力のある者たちだけの選択肢。だが世界には、やられたらやられっぱなしの人々がたくさんいる。
暴力を手にした者が、それを使わないように抑制するのはむずかしい。アフガニスタンで、イスラエルで、チリで、非力な人々をおさえこむ無法な暴力が行使される。宣戦布告もなく、国際社会の合意もなく、だれが敵なのかもよくわからないままに、戦争が始まり、殺されていく人々がいる。その理由もわからないままに空爆の犠牲になったアフガニスタンの人々にとっては、アメリカの攻撃も「もうひとつの9・11」だったのではないだろうか。争いのなかでもっとも犠牲となったのは、泣くことと祈ることしかできない者たちだった。
理不尽な暴力に遭う。ゆるせない、と拳(こぶし)をにぎりしめる。そこまではおなじだ。そこで、くちびるをかみしめながら拳をおろす。そんな経験を、わたしたちはしてこなかっただろうか。ヒロシマ、ナガサキの惨劇のあと、日本には拳をふりあげる力さえなかった。同じように夫に殴られつづける妻も、食ってかかって反撃したりはしない。なぜか。自分の無力さが骨身に沁みているからだ。反撃すれば、もっと手痛いしっぺがえしが待っていることを、知っているからだ。この経験は、無力なものには親しい。
もしあなたが非力なら、あなたは反撃しようとしないだろう。なぜなら反撃する力があなたにはないからだ。あなたが反撃を選ぶのは、あなたにその力があるときにかぎられる。そしてその力とは、軍事力、つまり相手を有無を言わさずたたきのめし、したがわせるあからさまな暴力のことだ。
反撃の力がないとき。わたしたちはどうしたらいいのだろう? 問いは、ほんとうはここからはじまるはずだ。
自爆テロの報に接したとき、これは見たことがある、と思った。アルジェリアの独立戦争で若い女が爆弾を抱えてフランス人を殺傷した。非力な者も、死と引き換えになら、自分自身を武器に変えることができる。女だって男なみに戦力になれる--そう考える人たちもいる。
非日常のヒロイズムに陶酔したのは男たちだった。だが今日のように明日も生きようとする女の日常にとっては、ヒロイズムは敵だ。そして。かつての学生闘争の中で、どうぞ当たりませんように、と祈るように石を投げながら、男なみになれない自分と、男なみになることの愚かさとを、女はとことん学んだのではなかったか?
ところで女は平和主義者だろうか? 歴史はその問いにノーと答える。日本の゛女性は「聖戦」の遂行に熱心に協力したし、英米の女性も戦争の「チアガール」を務めた。女だからというだけで、自動的に平和主義者だということにはならない。
フェミニズムは女にも力がある、女も戦争に参加できる、と主張する思想のことだろうか? アメリカのフェミニズムは女の男なみの戦闘参加を求めてきた。だが、もしフェミニズムが、女も男なみに強者になれるという思想のことだとしたら、そんなものに興味はない。わたしの考えるフェミニズムは弱者が弱者のままで、尊重されることを求める思想のことだ。だから、フェミニズムは「やられたらやりかえせ」という道を採らない。相手から力づくでおしつけられるやりかたにノーを言おうとしている者たちが、同じように力づくで相手に自分の言い分をとおそうとすることは矛盾ではないだろうか。フェミニズムに限らない。弱者の解放は、「抑圧者に似る」ことではない。
戦争を含めてあらゆる暴力が犯罪だ、ということができなければ、DV(夫や恋人からの暴力)すら解決することができない。そしてもし、DVをなくすことに、わたしたちが少しでも希望を持つことができるなら、国家の非暴力化に希望をもってはいけないのだろうか。
(『生き延びるための思想』(上野千鶴子著)~より)
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『市民派議員になるための本』を書きはじめていた。
上野さんが「本書の到達点と言うべき、結論となる主論文」といわれる、
「1 市民権とジェンダー」はわたしにとっても切実な問いだ。
市民とはだれか? 国民と市民はどう違うのか?
市民にとって、公平とはなにか?
そして、わたしの求める市民権とは?
「1 市民権とジェンダー」
・・・・・その公的領域のゲームでは、差異の負荷がまったくない者を範型に近代個人像がつくられており、そうした人々が、もっとも有利になるようにルールがつくられている。公的領域のゲームは差異を無視するという仕方で差異を暗黙裏に組みこんだシステムであり、公平を僭称しながら不公平を帰結するしくみである。
個人の間に差異がないということのは、もちろん現実にはありえない虚構に過ぎない。だとすれば公的領域に差異を組みこんで、異なったニーズに異なった対応をするべくゲームのルールをつくりかえる必要があろう。「同じであること」の前提が崩れれば、万人に共通する普遍解はありえず、固有性に応じた特殊解があるだけとなる。
(『生き延びるための思想』P39より)
「公的領域」、いわゆる「政治」にかかわってきたわたしは
この部分に強く共鳴する。
わたしの答えは「市民自治」「市民社会」のなかにある。
大文字の「政治」も、小文字の「政治」も権力関係。
「くに」と「こじん」を串刺しにする理論があるなら、
「市民社会」をつらぬく論理もあるはずだ。
わたしは「政治」や「法」にかかわりながら、
相手の言語を駆使して、あいての土俵でたたかっている。
だからこそ、その限界もまた痛感している。
「趣味は政治」(笑)。
「政治」ですべてが解決できるとは思わないが、
「私的領域とは公的につくられたものである」。
「政治」というツールも、使いようでは役に立つ。
わたしはいま、公的領域のルールを、
個人の差異に合わせた「特殊解」にしたい、と
つまり、それぞれの当事者のニーズに合わせた政策を
実現できるルールの組み替えを考えている。
さまざまなひとがいきている市民社会には、
固有の問いと、特殊解があるだけだ。
「女や子どもや、おとしよりや外国人や、障がいのある人や、寝たきりの人が、その人がその人のままで、いまここに存在し、だれからも支配されず抑圧されずに、やりたいときにやりたいことができ、やりたくないことをやらないでいられる」(『市民派議員になるための本』P258)、
わたしはそんな市民社会をつくりたい、と自著に書いた。
本書の論文の半分以上をすでに読んでいるが、
その多くは、上野さんから届いたもの。
この時期、上野さんと仕事ができたおかげで、
わたし自身の考えを言語化することができた。
なにより、
身近で上野さんの思想に接することができたのは
望外のよろこびだ。
3 対抗暴力とジェンダー
被害者になることを拒絶することをつうじて、加害者にもならないこと。いま・ここでの女の闘いは、これしかない。それは不服従ではあるが、無抵抗ではない。そしてこの世のどこからも逃げ場のない弱者にとっては、「服従が抵抗であり、抵抗が服従である」(スピヴァク)ような抵抗性のもとで、からくも生き延びることを意味する。
逃げよ、生き延びよ。・・・・・・・・・・・・・・
(『生き延びるための思想』P114より)
6 「民族」か「ジェンダー」か?
・・・・・・・・・・・フェミニズムはナショナリズムと両立しない。したがって女性の国民化の方向にフェミニズムの解はない、というきっぱりとした答えである。そしてそれは参加型のジェンダー平等に対して、待ったをかける実践的な帰結をも持つだろう。そして「フェミニズムがナショナリズムを超える」とは、国籍を離脱できないわたしたちが日々の実践のなかでどのような実践を積み重ねるかということでしか表現することができず、その課題はわたしだけのみのでなく、岡さん自身のものでもないのだろうか?・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(『生き延びるための思想』P165より)
本のタイトルでもある、
補論「生き延びるための思想」が掲載された『atあっと』0号が
上野さんから届いたのは、昨年5月。
『atあっと』0号「生き延びるための思想」上野千鶴子(5/24記事)
「人間が生き延びるために
国家・暴力・市民権を問い直す」。
この主題をわたしもずっと考えつづけてきた。
弱者が弱者のままで「生き延びるための思想」の先にあるもの。
それは、わたしにとって「希望」という名の
「ひとすじの光」である。
この本の「あとがき」は、「『祈り』にかえて」。
「祈り」ではなく、「祈り」に代わるものを、
わたしたちは紡ぎ出すことができるだろうか?
(『生き延びるための思想』p274より)
上野さんの思いが、こころにしみる。
装丁は、その思い(コンセプト)をかたちにしたという、
安藤忠雄さんの「光の教会」(1989)。
本の写真を早春の光のなかで撮った。
なんて、うつくしい本なんだろう!
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最後まで、読んでくださってありがとう。
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