毎週70万部も発行されている『週刊ポスト』誌上で、「おひとりさま論争」がおきています。
といっても、週刊誌を読まない女性の皆さんはご存知ないかもしれませんね。
ことの発端は、内田樹氏が「週刊ポスト2010/5/7、14合併号」で、
上野千鶴子さんの著書『おひとりさまの老後』を名指しで批判したこと。
タイトルには、 「内田樹が上野千鶴子に大反論!」
「おひとりさまでは男も女も生きられない」という文字がドカンと出ています。
週刊ポスト2010/5/7、14合併号
この記事を読んで、あまりの酷い内容に、アゼンとしました。
わたしたちは、2000年から上野さんの著書の読書会を続けていて、
『おひとりさまの老後』も1年かけて読みました。
「大反論」と書いてあるけれど、上野さんは内田さんのことを論じていないので、反論とは疑問。
どこをどう読めば、こういう「批判」になるのか、ひょっとして内田氏は本を読んでいなくて、
上野さんがただ感覚的に好きじゃないだけではないのか、と思うほどの雑駁さ。
と思っていたら、上野さん自身による、内田氏への「弁駁」が、
翌月の『週刊ポスト2010/6/11号』に掲載されました。
反論とはこうしてするものだ、というお手本のような文章。
内田氏にきっちりと反駁し、完膚なきまでに論破しています。
週刊誌なので、本屋さんにはもうないし、図書館にでも行かないと読めないので、
上野さんの反論と、さいしょに内田氏が「おひとりさま」に言及した関連部分を紹介します。
関心のある方は、読み比べてみてください。
『週刊ポスト2010/6/11号』
上野さんの考えは、中日新聞に連載された【介護社会】のロングインタビューに詳しいです。
【介護社会】連載「上野千鶴子さんに聞く」 ロングインタビュー (2010-06-10 )
応援クリック してね
本文中の写真をクリックすると拡大します。
内田樹氏が「おひとりさま」に言及したところを以下に引用します。
ちなみに、5月の『週刊ポスト』発行後に、内田氏はご自身のブログで、
「論争を好まない」と書いています。
論争がきらいなら、「名指しで論争を吹っかけるなよ」と思いますが、
百歩譲って、70万部も発行している週刊誌に持論を展開したのなら、
言葉を発した人間としての責任はあるはずです。
上野さんは、「反論」の最後をこう結んでいます。
・・・・後ろからこっそり斬りかかる闇討ちのような卑怯なやり方こそ、氏の大好きな武道の、もっとも忌むべきことではないのか。
この件について、わたしは公開の場や雑誌媒体で氏との対談に応じる意思があることを付け加えておきたい。
最後に、この文章を掲載することで、わたしの「反論権」を保証してくれた『ポスト』編集部に感謝する。
言っても書いてもいないことで批判され、内田氏に「闇討ち」にされた
上野さんの怒りの強さが伝わってくる気がします。
内田氏は、上野さんに応答して、
ちゃんとかみあった議論をするのがフェアなやり方だと、わたしも思います。
最後まで読んでくださってありがとう
クリックを
記事は毎日アップしています。
明日もまた見に来てね
といっても、週刊誌を読まない女性の皆さんはご存知ないかもしれませんね。
ことの発端は、内田樹氏が「週刊ポスト2010/5/7、14合併号」で、
上野千鶴子さんの著書『おひとりさまの老後』を名指しで批判したこと。
タイトルには、 「内田樹が上野千鶴子に大反論!」
「おひとりさまでは男も女も生きられない」という文字がドカンと出ています。
週刊ポスト2010/5/7、14合併号
この記事を読んで、あまりの酷い内容に、アゼンとしました。
わたしたちは、2000年から上野さんの著書の読書会を続けていて、
『おひとりさまの老後』も1年かけて読みました。
「大反論」と書いてあるけれど、上野さんは内田さんのことを論じていないので、反論とは疑問。
どこをどう読めば、こういう「批判」になるのか、ひょっとして内田氏は本を読んでいなくて、
上野さんがただ感覚的に好きじゃないだけではないのか、と思うほどの雑駁さ。
と思っていたら、上野さん自身による、内田氏への「弁駁」が、
翌月の『週刊ポスト2010/6/11号』に掲載されました。
反論とはこうしてするものだ、というお手本のような文章。
内田氏にきっちりと反駁し、完膚なきまでに論破しています。
週刊誌なので、本屋さんにはもうないし、図書館にでも行かないと読めないので、
上野さんの反論と、さいしょに内田氏が「おひとりさま」に言及した関連部分を紹介します。
関心のある方は、読み比べてみてください。
『週刊ポスト2010/6/11号』
「おひとりさま」論争に新展開 東京大学大学院教授 上野千鶴子が内田樹 神戸女学院大学教授を弁駁 家族と会社組織の復活など時代錯誤だ ・・・・内田氏の発言に対し、上野氏から反論が寄せられた。以下に掲載する。 * * 内田樹にけんかを売られた。けんかが好きなわけではないが、ふりかかった火の粉は払わねばならない。内田氏を批判したわけでもないわたしの著書(『おひとりさまの老後』)に氏が「反論」というのもおかしなものだが、批判されたからにはわたしのほうに氏に反論する理由がある。編集部が構成したインタビュー記事だからか、氏の著書にあるいつもの周到な論法は影をひそめ、その代わりワキの甘い議論のなかに、氏のホンネが漏れている。 まず第一に、氏のわたしへの「反論」が、誤読にもとづく「わら人形叩き」だと指摘したい。相手の論を拙劣にまとめ、それを叩くのは批判の論法としては最低である。書いてもいないことをわたしの説として流布されては、わたしの著書を読んだことのない人たちに対して「風評被害」を被ることになる。 編集部がつけたという見出しには「おひとりさまでは男も女も生きられない」と活字が踊っているが、わたしの著書にも同じことが書いてあるはず。「ひとり世帯」で暮らすことと、「孤立して暮らす」こととは同じではない。ひとり世帯なら、なおさらセイフティネットのために「人持ち」になりなさいと勧めているてんでは、内田氏の説とわたしの考えは変わらない。 氏は「あの本の核心は『家族が嫌い』ということをカミングアウトした部分でしょう。......その心情は抑圧されていた。上野さんがそれを代弁したことが広く共感を呼んだのだと思います」という。批判するときにはどの本の何頁にどういう文章があると典拠を示すのがルールだが、それは述べられていない。わたしの本にはどこにも一行もそんなことは書かれていない。それどころか、読者の圧倒的な多数は、既婚者であることがわかっている。家族が好きだろうがそうでなかろうが、長生きすれば「おひとりさまになる」可能性が高くなる......ことに、読者の多くは共感したのである。・・・・(略)・・・・ 「おひとりさま」のネットワーク 第二に、氏が「これから必要なのは、弱者が自尊感情を保ったまま生きていける手触りの暖かい相互支援、相互扶助の親密なネットワークを構築することだと思います」ということには、わたしも100%賛成である。わたしの著書にも同じ趣旨のことが書いてあるはずなのに、それを読み落として自分が思いついた手柄であるかのように語るのはフェアとはいえないが、そこから先の処方箋が氏とわたしではまったく違う。ここから先は語るに落ちる氏のホンネがのぞけておもしろい。 氏が「おひとりさま」に代わって提示する処方箋は「共同体」である。その典型は「家族」と「会社組織」だという。そもそも「おひとりさま」は、「家族」も「会社組織」も老後の選択肢にない人たちのために書かれたものだ。そこに「家族」と「会社組織」の復活を唱えるのは、時代錯誤以外のなにものでもない。「家族共同体」が、「子供、高齢者、病人、障害者を含んで健全に機能できるためにはどうしても15~20人くらいのサイズの集団である必要がある」と氏はいうが、日本の直系家族でさえ、最大規模で平均7~8人だった事実を考えれば、氏の説はまず歴史にもとづかない妄想であること、次に福祉の機能を家族におしもどす反動的なとんでも発言であることを指摘しなければならない。・・・(略)・・・・ わたしの考えるネットワークはそれとはまったくちがっている。同じく「中間集団が必要」といっても、かつてのような家父長的な大家族や擬似家族的な会社組織は、氏がどんなにその「再構築」をのぞんだとしても、第一に歴史的に不可能であり、第二に社会的にものぞましくない。それに対して「おひとりさま」がつくりあげてきた(実例はわたしの著書をみてほしい)ネットワークは、個人を尊重した血縁によらない(擬似血縁もめざさない)共助けの支えあいである。氏は主従関係や師弟関係がよほどお好きなようだが、はからずも氏の権威主義的なホンネがあらわれているというべきだろう。・・・(略)・・・・ 強者のシナリオではないか 第三に、氏は「おひとりさまでは生きられない」実例として、ご自身の家族暦を進んで披瀝している。・・・・・・・・自分の家族がレアケースであることぐらい、データを見ればすぐにわかりそうなものだ。子どもの数が減ったのは日本人が個人主義になったからではない。子どもに対する親の関与が強まり、子育てのコストがかかりすぎるようになったから、である。・・・・・・・・・・・ 高齢の離死別男性の再婚確立は低いし、そのなかでも再婚が可能な男性とは、社会的・経済的・身体的な資源を持った再婚市場における性的強者であることが知られている。実際には再婚願望を持っていてもそれがかなわない多くのおひとりさま高齢者がこれからぞくぞく増えるというのに、「ぼくのように再婚したら」というのは強者のシナリオにしかならないだろう。そのうえ再婚しつづけて「妻に看取られるのが男の幸福」というイデオロギーを再生産してもらっては困る。これでは女にツケをまわすだけでなく、現実には妻を介護する高齢の夫もまた増えているというのに。・・・ ・・・・(以下略)・・・・ |
上野さんの考えは、中日新聞に連載された【介護社会】のロングインタビューに詳しいです。
【介護社会】連載「上野千鶴子さんに聞く」 ロングインタビュー (2010-06-10 )
応援クリック してね
本文中の写真をクリックすると拡大します。
内田樹氏が「おひとりさま」に言及したところを以下に引用します。
内田樹が上野千鶴子に大反論! 「おひとりさまでは男も女も生きられない」 今の時代は「家族」「会社組織」という共同体こそ人生にとって大切だ。 手触りの暖かさを見失うと、あと20年で取り返しがつかなくなる-- ・・・(略)・・・・ -- ・・・上野氏の著書『おひとりさまの老後』がロングセラーと綯ってます。この現状をどう見ていますか。 内田 『おひとりさまの老後』には強い"違和感"を持ちました。 --違和感とは? 内田 あの本の核心は「家族が嫌い」ということをカミングアウトした部分でしょう。「家族に何の愛情も感じてないから、世話になる気もないし、世話をする気もない」と考えている人が現に大量に存在している。でも、その心情は抑圧されていた。上野さんがそれを代弁したことがひろく共感を呼んだのだと思います。でも、ぼくはそれは「それを言っちゃあ、おしまいだよ」と思います。 -- 「おひとりさま」は問題のある考え方だと? 内田 「ひとりで生きる」ことが可能だというのは、それだけ社会が豊かで安全だということです。その前提成立しないところでの「おひとりさま」はきわめてリスクの高い生き方だと思います。・・・・(略)・・・・ -- それが今でも「おひとりさま」がウケています。 内田 「誰にも干渉されないで、自分らしさを貫くことが正しい生き方だ」とアナウンスされてきたからです。ぼくはこれはある種の"洗脳" だと思っています。 -- 今はそれでは通らない。 内田 21世紀に入ってからは、「消費活動をどうやって活性化するか」だけを考えていればいいという状況ではなくなっています。ぼくたちは「貧しい資源をやりくりする」状況に適応しなければならない。 上野さんの「おひとりさま」コミュニティーはあくまで「強者連合」でしょう。お金があり、社会的地位があり、潤沢な文化資本のある人はそこに参加できて、快適に暮らせるでしょうけれど、その条件を満たす人は今はもうごく少数しかいない。それより、緊急の問題は大多数の「ひとりでは暮らせない」人たちがどうやって他者と共生するスキルを開発するかでしょう。 集団の中で「役割」を果たせ -- 「おひとりさま」ではなく「共同体」ですか。 内田 競争ルールから共生ルールへのシフトです。これから必要なのは、弱者が自尊感情を保ったまま生きていける手触りの暖かい相互支援、相互扶助の親密なネットワークを構築することだと思います。 -- 内田さんが考える共同体とは? 内田 原型はもちろん「家族」です。家族は性別も年齢も社会的能力もバラバラな集団です。そのなかでは「自分にできること」「自分にはできないこと」をきちんと把握できなければならない。自分に与えられた役割を理解し、それを達成することが求められます。・・・・(略)・・・・ -- どのくらいのサイズがいいのでしょうか? 内田 子供、高齢者、病人、障害者を含んで健全に機能できるためにはどうしても15~20人くらいのサイズの集団である必要がある。成員の半数くらいが労働人口に含まれていれば、集団は保つでしょう。誰でもかつては子どもであり、いずれ老人になり、いつかは病気に罹り、高い確立で心身機能にトラブルを抱えるようになる。だから、弱者支援というのは「時間差をおいた自己支援」に他ならないのです。・・・・・・・・・・・・・・・ --親族以外では? 内田 家族は基本ですが、一番強いのはたぶん「主従関係」と「師弟関係」でしょうね。 --そうなんですか? 内田 主従・師弟関係は「時代を超えて継承しなければならない集団的資産」を軸に統合されている。このバインド(結束)は家族よりも強固です。 -- 具体的にはどういう組織のことでしょう。 内田 江戸時代までの大店を模した会社組織は擬似的な主従関係でしょう。「老舗の暖簾」という制度資本を継承するために一族郎党が結束して相互扶助組織を作っている。年功序列、終身雇用が廃され、成果主義・能力主義が導入されて、企業はもう擬似家族ではなくなった。・・・(略)・・・・ 武道でも「共同体」は作れる ・・・・(以下略)・・・・ |
ちなみに、5月の『週刊ポスト』発行後に、内田氏はご自身のブログで、
「論争を好まない」と書いています。
論争について (内田樹の研究室2010.6.5) ある月刊誌から上野千鶴子と対談して、「おひとりさま」問題について議論してくださいというご依頼があった。 上野さんと対談してくれという依頼はこれまでも何度もあった。 どれもお断りした。 繰り返し書いているように、私は論争というものを好まないからである。 論争というのはそこに加わる人に論敵を「最低の鞍部」で超えることを戦術上要求する。 それは「脊髄反射的」な攻撃性を備えた人間にとってはそれほどむずかしいことではない。 あらゆる論件についてほれぼれするほどスマートに論敵を「超えて」しまう種類の知的能力というものを備えている人は現にいる(村上春樹は『ねじまき鳥クロニクル』でそのような人物の容貌を活写したことがある)。 それは速く走れるとか高く飛び上がれるとかいうのと同じように、例外的な才能である。 でも、そのような才能を評価する習慣を私はずいぶん前に捨てた。 そのような能力はその素質に恵まれた人自身も、周囲の人もそれほど幸福にしないことがわかったからである。・・・・(略)・・・・ |
論争がきらいなら、「名指しで論争を吹っかけるなよ」と思いますが、
百歩譲って、70万部も発行している週刊誌に持論を展開したのなら、
言葉を発した人間としての責任はあるはずです。
上野さんは、「反論」の最後をこう結んでいます。
・・・・後ろからこっそり斬りかかる闇討ちのような卑怯なやり方こそ、氏の大好きな武道の、もっとも忌むべきことではないのか。
この件について、わたしは公開の場や雑誌媒体で氏との対談に応じる意思があることを付け加えておきたい。
最後に、この文章を掲載することで、わたしの「反論権」を保証してくれた『ポスト』編集部に感謝する。
言っても書いてもいないことで批判され、内田氏に「闇討ち」にされた
上野さんの怒りの強さが伝わってくる気がします。
内田氏は、上野さんに応答して、
ちゃんとかみあった議論をするのがフェアなやり方だと、わたしも思います。
最後まで読んでくださってありがとう
クリックを
記事は毎日アップしています。
明日もまた見に来てね