嘉納治五郎が生まれたのは、1860年(万延元年)5月4日である。この年、桜田門外で井伊大老襲撃事件が起き、遣米使節団がポーツマス号で海を渡ったのもこの年である。そのそも、柔術といわれる武芸が生まれたのは、14世紀の終わりの頃である。提宝山流という流派が一番古く、その後竹内流、荒木流などが名乗りをあげ、江戸時代になると流派の数は50を越えた。武士の基礎的な武術として栄えた。
だが、明治維新後になると、柔術は衰退する。それを復活させ、柔道というスポーツとして体系づけたのが、嘉納治五郎である。治五郎は元来身体の弱い少年であった。それを克服しようとして門を敲いたのが、天神真楊流の福田八之助のところであった。ついで飯久保恒年のもとで起倒流を学び、その他の流派についても研究を続け、各流派の長短特質を比較研究した。その研究をもとに開いたのが、講道館である。明治15年のことであった。
治五郎は柔道は単に身体を強壮にするだけに止まらず、精神修養のためにも効果を上げるものとて、体育・修身・護身の三つを講道館の理念として掲げた。「精力善用」「自他共栄」の標語を掲げた講道館に多くの青年が集まることになった。富田常雄の小説「姿三四郎」がベストセラーとなり、映画、テレビドラマ、漫画で広く紹介され、柔道繁栄の助けとなった。1964年の東京オリンピックから正式種目となり、世界の柔道が広まった。
柔道界は体罰問題で揺れている。世界の柔道愛好家から、日本柔道界の在りように批判が起きている。今日、嘉納治五郎がいたならば、どのような対処を行ったであろうか。治五郎の原点に戻って、深く自省すべきときである。