春先には、戸外で目はどうしても花に向いてしまう。だが小満を明日に控えて、新緑の美しさにあらためて驚かされる。昨日の雨が、靄のように残っているなかでは、なおさらその感を深くする。
芭蕉の句に
あらとふと青葉若葉の日の光
というのがあるが、太陽の光を、神聖なものと見て、その恩恵を受けて若葉から青葉へと一斉に茂っていく森の姿を詠んだものだ。新緑をただ緑と見ているのではない。今朝のような光景に接すると芭蕉の繊細な自然への観察眼が理解できる。木の種類によって、若葉になったものもあれば、それを過ぎて深緑の葉もある。そのコントラストを照らすのは、太陽の光である。それは、植物の成長を促す神聖な力であるのだ。
新緑のなかを、ケーン、ケーンと鳴きながら駆け回るのは雉である。雄の雉が、羽を広げて雌を呼べば、雌はチョン、チョンと可憐な声で応える。だが、この求愛の声が災いのもとになる。「雉も鳴かずば撃たれまい」と言われるように、声や薮をこぐ羽音で居所を知られ、ハンターの格好の餌食になる。「焼け野雉、夜の鶴」というのは、母性愛の強さに例えられる。
昔は、春に野の枯れ草に火をつけて焼き払い、作物がよく育つようにした。この野火で被害を蒙るのが雉である。ある学校の先生が、野火の焼け跡を歩いていると、羊歯の葉かげにガサガサと動くものある。よく見ると雉が一羽蹲っていた。尾羽は黒焦げになり、目のまわりは焼けただれている。さらに近づくと、雉は飛び立ったが、そのあとにには、5個の卵が守られてあった。自らの体で火を防いで守り抜いたのであった。寒い凍てつく夜、鶴は自らの翼で、卵を必死で暖める。
新緑のなかを駆け回る雉を見て、こんな話があったことを思い出した。