ふた国の生きのたづきのあひかよふ
この峠路を愛しむわれは 斎藤茂吉
明治29年、齋藤茂吉は上山の尋常高等小学校を卒業し、8月斎藤家の養子となって開成中学校に入学した。この年茂吉は15歳、父に連れられて仙台駅までは上山から徒歩で関山峠を越えて作並温泉に泊っている。関山のほかに笹谷峠を越える方法もあるが、汽車に乗る前に温泉で休むことを考えたのかも知れない。言いたいことは、つい明治の時代まで、人は山中の峠道を歩いて移動していたということだ。自分の子どもの時代でも、嫁いだ姉の家まで、低い山を越えて4里の山道を歩いて行ったことを覚えている。
いま茂吉の子どもの頃の笹谷越えを偲ぶには、宮城側の川崎町今宿からの笹谷遊歩道を歩くのが一番である。千歳山に伝わる阿古屋伝説で、京都の公家を慕う阿古屋姫が、この峠でささやきを交わしたことから笹谷の名がついたという話がある。今宿には阿古松を祀った看板があった。東側の笹谷古道は、「化け石」、「函水」など峠を歩いた往時を偲ばせるものに所々で出会う。尾根に上がって標高900m地点には千住寺跡があり、壊れた手水鉢も保存されている。旅人はここで一休みし、道中の安全を祈願したと思われる。そこをさらに西進すると有耶無耶の関跡があり、ここがかっての国境である。
古道には古い時代から馬が荷を運び、西側の急坂では牛を使うこともあった。冬になると積雪のため牛馬も通わず、荷はもっぱら背負子いわれる人力で行われた。江戸時代、牛馬のほか、背負子として新山に100人、関沢50人も雇われていたと言われる。山形からは穀物、葛粉、煙草、銅などを移出し、宮城側からは生魚、呉服、小間物、石油などを移入した。関所で検分が済むと人馬は六地蔵に導かれ急坂を関沢へと下っていく。関沢の集落は、いわば物資の流通を担う運輸業の様相を呈していた。多くの物資を捌いて、生活も裕福であった。峠が新道となり、物資に流通が自動車や汽車の時代に入ると、この地区には棚田も捨てられ、人々は山中に入って炭焼きで暮らしの資を得るほかはなかった。茂吉の詠んだ峠路を「愛しむ」と表現しているのは、峠路がさびれて徒歩の時代の栄えた時代への懐古の情があったのかも知れない。