11月9日、僧侶で作家の瀬戸内寂聴さんが京都の病院で逝去された。心不全のためと報じられた。享年99歳。思えば、出家前の瀬戸内晴美の名に始めて出会ったのは、詩人真壁仁の書いた『文学のふるさと山形』であった。昭和36年に山形新聞に連載された文学者や詩人の小評伝である。無論、瀬戸内は山形出身の文学者ではない。その中の作家小田仁次郎の項目に瀬戸内の名が出てくる。小田は昭和23年に「触手」という小説を書き、その後週刊誌に大衆小説を書きながら同人誌「A」を編集発行した。その同人には田木敏智、鈴木晴夫、瀬戸内晴美が加わり、文学修行の場となった。場所は東京下連雀のラーメン屋の2階にあった貸し部屋であった。評伝小説『田村俊子』を書いて、作家の地位を固めたのはこの時期であった。
大学の先輩で俳人の斎藤慎爾さんが『寂聴伝』を書いたのが、平成20年のことである。以来、文庫本で少しづつ瀬戸内寂聴を読むようになった。良寛の晩年を書いた『手毬』、『かの子繚乱』、『煩悩夢幻』、『炎凍る樋口一葉の恋』と読み続け、寂聴訳『源氏物語』が寂聴遍歴の終着駅であった。晴美から剃髪して寂聴となったのは昭和48年のことだ。その後も、旺盛な執筆は衰えを知らない。入院する前日、まさに死のくるまで、寂庵で机に原稿用紙を広げ
依頼された原稿を書き継いでいたという。
手元に出家後2年ほど経って書いた随筆『嵯峨野日記』がある。54歳の時である。それから死を迎える99歳まで、僧と作家を兼ねた生活が45年続いた。時折り開く『嵯峨野日記』にはその生活の一端が書かれて興味深い。秋の紅葉のころ、寂庵から眺めた風景。
「毎日見あげる小倉山も、急に華やかに彩られてきた。小倉山は花の頃は何の風情もないが、今頃の秋の季節が最も華やいでくる。雑木の落葉が毎日おびただしくなり、苔の上に散りしくその葉を掃きあつめるのが忙しくなる。すると、隣の墓地の木々も次第に身を軽くして、茶の間から、くっきりと嵐山が見える。」
得度してくれた今東光の遷化の様子も興味深く書かれている。ガンを乗り越え、執筆のなかでも穏やかな晩年であったといえるが、その逝去の知らせに、頭を垂れ、合掌したい。