今日、二十四節季の小雪。古来の暦が不気味なほど、季節の移ろいに一致している。小雪の日に、予報では今夜遅くになって雪マークが現れた。二日ほど前、芸工大のスロープで夕焼けを見て、こんな穏やかな夕ぐれも今年見る最後かと思ったが、どうやらその予感は当たったらしい。あまりの美しさにカメラを出すと、冬木の根方で夕陽を撮るカメラマンがいた。大山桜の大木のシルエットに神々しい美しさがある。人はなぜ一本にかくも感動を覚えながら、その姿に見入るのであろうか。
我妹子が見し鞆の浦のむろの木は
常世にあれど見し人そなき (万葉集巻3・665 大伴旅人)
木が依代となって山の神が里に降りて来るというのは、古来の日本人の自然信仰であった。むろの木は松の木で落葉することもなくいつまでも不変の姿を見せる。そんな松を見ることは、旅する人の無事を保証する手形のようなものであった。旅人は妻と一緒にこのむろの木を見たのだが、その旅で妻は亡くなってしまった。愚痴のひとつも言いたいのがこの歌である。木は古来、神の宿る神聖なものであった。夕陽にシルエットを見せる冬木の姿は、そんな古来の信仰をかいま見せる瞬間であったような気がする。自らの安寧を祈る気持ちが、シルエットの美しさに同調して、心のなかに安らぎを感じさせてくれるのかも知れない。今年もたくさんの写真を撮ったが、この一枚がベストショットであった。