常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

ふくらむ花芽

2014年02月20日 | 日記


室内においてあるシンビジュームの花芽が膨らんできた。昨年はカトレアがたくさん花芽をもって、初夏になるまで楽しませてくれたが、ことしはその気配がない。昔、戸建ての家に住んでいたころ、隣のご主人が大のラン愛好家であった。kさんと言った。シンビジュームやデンドロリュームとか、名も知らない高価な鉢を幾鉢となく育てていた。わが家でもkさんから分けた貰ったシンビジュームの鉢を長く咲かせていが、いつか今の鉢に代替わりになっている。

ランへの水遣りは霧吹きでする、などという知識を得たのもkさんからであった。春のある日、kさんは散歩の途中、山で見つけたと言って春ランを根に土をつけて持参してきた。薄緑の春ランは、日影の花のように弱弱しい姿であったが、よくみるとどこか秘めた気品があった。調べてみると、シンビジュームの和名は春ランだということも分かった。同じラン科の植物である。世に蘭の愛好家は多い。

春蘭を掘り提げもちて高嶺の日 高浜 虚子

山ではそろそろマンサクが咲き始める。雪がとけてきた林床にはフキノトウが顔を出すのももうじきだ。オオイヌノフグリやネコヤナギが見られるのも遠い日ではない。野を覆いつくす雪を見ると気がふさぐが、いつも驚かされるのは太陽の大きな力だ。これほどの大量の雪をとかすのに、さほどの日数は要しない。うららかな春の日が待たれる。

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雨水

2014年02月19日 | 日記


大雪から5日、ようやく陽がさしてきた。まだ寒気は抜けないが、暦の上では今日は雨水である。次第に大気の気温が上昇し、いままで降っていた雪にかわって雨が降るようなる。たしかに、陽がさすと車のなかはヒーターがなくとも暑い感じがするし、大雪で残った積雪は目に見えて溶けていくような気がする。

チャペック『園芸家12カ月』に2月の園芸家の項目がある。長い冬が終わり、園芸家が待ち続けた春がいよいよやってくる。

「春になると、いやおうなしに、園芸家は庭におびき出される。スープのスプーンをおくが早いか、すばらしい青空に尻をつき出し、小さな花壇でめいめい何かをはじめている。あたたまった土のかたまりを指でもみつぶしているかと思うと、もう別のところへ行って、風や雪にさらされてぼろぼろになった、貴重な去年の堆肥を根もとにすきこんでいる。あっちで草を抜いたかと思うと、こっちでは石ころをひろう。」

今日、「わたしの農園」の畑の今年の利用を申し込む。雑草に負けながらの野菜作りだが、去年よりもう少し進化させて、新鮮な野菜つくりと、野菜を楽しむ食卓のためにがんばりたい。一年前の同じ日、このブログは同じタイトル投稿していた。夕方にかけて寒気が入ってきて、雨水とは程遠い寒い一日であった。

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桜草

2014年02月18日 | 日記


銀行の景品に桜草のミニポットを貰ってきた。雪ばかりに悩まされている身には、この花のピンクがうれしい。冬に逆戻りしたような日々だが、花をみるとやはり春はすぐそこだ。桜草は鉢植えでなければ5月ごろに咲くが、ポットに咲いた花をテーブルに置くと、春の香りがする。プリムラという洋風の名もついいている。そのほかに常盤桜、乙女桜、雛桜などなど可憐な名がついている。

わがまへにわが日記桜草 久保田万太郎

ビニールハウスという日本の発明が季節をなくした。「無季の花が無節操にいつでも咲いている」と言ったのは、コラムニストの荒垣秀雄である。花だけでなく、野菜も季節を問わず出回っている。季節はづれの大雪に、スーパーの店頭にある筈の花や野菜が姿を消してしまったのは、現代文明の弱点を表しているのであろう。





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実朝忌

2014年02月18日 | 日記


先週、土曜日からの大雪は記録詰めで日本列島を驚かした。方々で孤立する街が続出。死者は23名に及んだ。殆ど雪の降らない甲府で114cmの積雪は観測史上初めてのことだ。山形でも50cmの積雪となり、2日間、駐車場と義母の実家の雪掃きに半日を費やした。この大雪ははこれからもずっと記憶に残るものであろう。

鎌倉に実朝忌あり美しき 虚子

2月18日(旧暦1月27日)は鎌倉幕府3代将軍であった実朝忌である。治承元年(1219)のこの日、右大臣源実朝は、夕刻6時ころ、鶴岡八幡宮に拝賀に出かけ参拝を終えた帰り道、参道の銀杏の木の陰に潜んでいた甥の公暁のために刺殺された。鎌倉幕府の血族の暗闘、北条氏の陰謀のなか、ひたすら京のみやびに憧れ、和歌に天凛の才を現した歌人実朝は28年の短い生涯を閉じた。歌の道は藤原定家の指導を受けている。

日本詩吟学院の教本に、源実朝の和歌が一首だけ入っている。実朝が21歳ころの歌である。

箱根路をわが越えくれば伊豆の海や 沖の小島に波の寄る見ゆ 源 実朝


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石川啄木

2014年02月16日 | 


石川啄木が故郷を捨て、小樽の町で新聞記者となったのは明治40年9月のことである。この年啄木は22歳の若さで、妻子を抱えていた。前年渡道した啄木は、函館の醸造家、宮崎郁雨の援助を受けていたが、安定した家庭を営むには物心両面で苦しい環境のなかにあった。函館、札幌、小樽と短い月日のうちに居所を転々とする。これは北海道にいる友人の庇護あればこその転進であった。だが自負心の強い啄木は、友人から世話された仕事先で、上司と折り合いをを付けられず、喧嘩別れをくり返した。

小樽新報では詩人の野口雨情とともに新聞の創刊に関わった。ここでの啄木の活躍は目を瞠るものがある。文を書く人材がほとんどいないなか、啄木は朝9時から夜10まで書き続け、3面から文芸欄に300行も書きまくった。だがこんな努力にも関わらず、新聞の先行きは一向に開けなかった。啄木はこの新聞を見限り、札幌に新聞社への就職運動をしていた。無断欠勤を咎められて、事務長と暴力事件を起こし退職を決意する。

子を負ひて
雪の吹き入る停車場に
われ見送りし妻の眉かな

幼子を抱えた妻の心中はいかばかりであったか。小樽の新聞社で喧嘩別れをしたものの、たのみの札幌の新聞社のらちもあかず、一家はたちまち生活の危機の直面した。かろうじて得た次の職場は、知人の経営する釧路新聞であった。小樽から釧路、この遠い見知らぬ地へと向かう啄木を妻は悲しい眼差し見送った。

しらしらと氷かがやき
千鳥なく
釧路の海の冬の月かな

この釧路の町で、啄木は芸者小奴と恋に落ちる。小樽に妻子をおいて、啄木の恋は実ることはできない。再び文芸を志して上京する。東京では親友の金田一京助の援助を受ける。朝日新聞社に入社、函館から家族を呼びよせたが、明治45年4月肺結核のため永眠。その生涯は青年の悲しみにみちている。


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