常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

白鷹山撤退

2014年02月15日 | 登山


低気圧の接近で朝から重い雪。小さな粒状の雪が絶え間なく降り、あっという間に積もっていく。このような天気では、山は中止だが、行けるところまでということで出かける。参加者6名、内女性2名。山の格好をして駐車場の雪を片付けるが、誰も山行とは思わぬらしい。
白鷹山スキー場の駐車場に車を置く。土曜日ということもあり、地元のスポーツ少年団が親子でスキーを楽しみに来ている。

駐車場脇の林道をカンジキで歩く。気温は0℃だが、すぐに汗が出る。白鷹山の裾から登るが雪が深い。新雪は膝上まで、その下は固い雪である。おそらく昨夜だけでこれだけの雪が積もったのだろう。傾斜は次第にきつくなり、雪がさらに深くなる。参加した女性たちから無理しないで、という声があり標高750m地点で撤退を決める。

青杉の匂ひつきとむ冬山路 能村登四郎

今朝、山行のため3時に起床。テレビのフィギュアスケート男子フリーを見る。羽生結弦選手の金メダル瞬間に出会う。おめでとう。


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江戸の雪

2014年02月14日 | 日記


先週の大雪が治まったのでやれやれと思っていたが、今週もまた雪の予報である。テレビでは横浜に雪が降る景色が映されていた。東京の降雪量予想が15センチというから、先週にくらべると少ないようである。だが、その後に大荒れとなり暴風雨の予報である。

いざゆかむ雪見に転ぶ処まで 芭蕉

現在でも東京の雪は珍しいが、江戸でも珍しく人々は花見のように雪見に出かけた。雪見の名所として知られるのは、隅田川堤、三囲、上野寛永寺、不忍池、神田明神、吉原などなど。山の手の雪の名所もまた多い。谷中の浄光寺は「江戸名所図絵」に、「当寺の書院は、高崖に架し、眼下に千歩の田園を見下せり。風景もっとも幽雅にして、四時の眺望たらずと言うことなし。中にも雪のながめ勝れたれば、世に称して雪見寺ともなづくとかや」と書かれている。

万延元年の桃の節句。この日は前夜からの大雪であった。井伊大老は朝9時ころ邸を出て、50人ほどの供侍に守られ粛々と江戸城へ向かっていた。行列がさいかち河岸の松平邸にさしかかったとき、水戸浪士18人が鉄砲を合図に斬りこんできた。雪の中、供侍は、刀を柄袋にしまっていた。突然の襲撃に刀を出すことが遅れ、次々に斬り殺された。大老の駕籠は外から刺され、有村治左衛門の手で首を取られた。桜田門外の変である。

時ならぬ雪に立花もろく折れ

立花は井伊家の紋所である。雪の少ない冬かと思っていたが、ここへきて太平洋側に珍しく雪が降る。これ以上転んで怪我をしないことを祈るばかりである。


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13日の金曜日

2014年02月13日 | 日記


今日は13日。金曜日ではない。日本では仏滅などいわれのない縁起をかつぐことがあるが、西洋で13日の金曜日といえば縁起では最悪の日だ。キリストの処刑の日が金曜日であったこと、キリストが12使徒とともにした最後の晩餐で13番目の席に座ったのが裏切り者のユダであったからだ。写真はブリューゲルが描いた「絞首台の上のカササギ」。

13日を物忌みし、ホテルなどの13階を省略するのは今日でも行われている。絞首刑で踏み板が外れて落下するのは13番目の階段だ。『レ・ミゼラブル』を書いたヴィクトル・ユーゴーもこの縁起をかついだことが知られている。1871年の冬、ユーゴーは政府の主催する国民会議に出席することになった。会場に向かってパリを出たのは、2月13日。この日の一等の乗客者は13人、ボルドーのホテルでは13号室。ユーゴーはこれだけ重なった最悪の数字に、「ああ、無常!」といったかどうかわからない。しかし、そんな縁起の悪い数字が重なってもユ-ゴーの身に何も起こらなかったことは確かだ。

明日はバレンタインの日。西洋では親しい人に花を贈る習慣らしいが、日本ではどういうわけかチョコレートが贈られる。会社勤めのころは、義理チョコを貰っていたが、定年後はそんな和製の習慣とは無関係になってしまった。

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額田王

2014年02月12日 | 万葉集


詩吟で和歌を吟じることが多くなり、万葉集の額田王の歌が選ばれることも多い。ではこの歌人がどういう歌人であったかということになると謎めいた部分も多い。時代からいえば斉明天皇の7世紀後半の宮廷で活躍した歌人である。どのようなきっかけで、斉明天皇から認められ、御言持ち歌人の地位を確立していったかを説明するエピソードがある。

秋の野のみ草刈り葺き宿れりし 宇治のみやこの仮廬し思ほゆ 額田王

宇治の都の仮廬は、斉明女帝が夫である欽明天皇在世中にともに旅した曾遊の地であった。この地を再び旅したおり、天皇は欽明天皇を偲んで懐旧の思い出を語った。その旅に同行していた額田王は、天皇の心情をくみ取りそのまま歌に詠んだのが上記の歌である。女帝はわが意をつくした格調の高い歌に満足し、王のやさしい思いやりと歌才をほめた。この歌が天皇の意を体しその立場で歌を詠む歌人、いわゆる御言持ち歌人の最初である。

そのためこの歌は天皇の御製ともされる。額田王が作った歌が天皇御製とされる例がほかにも3例あり、王が特別の立場の歌人であったことの証左でもある。

熟田津に船乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな 額田王

熟田津は愛媛県の道後温泉のあたりである。百済は唐と新羅に攻められ、大和朝廷の助けを求めてきていた。年老いた斉明女帝はここに軍団の舟を停め潮待ちをしていた。女帝の疲労を回復させて、筑紫の大津へ援軍を督励するために船に乗るのだ。この女帝の意気を詠みあげ、宮廷集団を動かす力をこの歌が持った。だがこの遠征で、斉明女帝は筑紫の朝倉の宮で崩じ、2年後の白村の江の戦いでは大和軍は唐に大敗してしまった。


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紀元節

2014年02月11日 | 日記


今日は「建国記念の日」。戦前は紀元節といった。この「建国記念日」を国民の休日に制定することに反対したのは、戦争反対を唱えた人たちである。私も行動は起こさなかったが、この休日を祝日に制定することには抵抗感があった。神社などで祝日を祝う行事が行われたが、反対派はこの祝日に反対する集会を、長年にわたって行ってきた。マスコミは必ず祝賀と反対集会を並べて報道していた。だが、年月の経過でこれらの行事は今日でも続いているものの、いつしか普通の行事として捉えられ、反対の集会もその規模を小さくしている。

紀元節が制定されたのは、明治7年で、この日は神武天皇の即位の日とし祝日とされた。夏目漱石は『永日小品』で、紀元節のエピソードを書いている。漱石の通っていた小学校の先生が黒板に「記元節」と書いた。先生がいなくなったので、漱石は記の字を記に改めた。先生は、「誰か記を紀と直したようだが、記と書いても間違いではないんだよ」と言った。漱石が小学校に入ったのは明治7年である。紀元節が制定されて間もない頃のことだである。後になって漱石はこのことを回想し、しなくてもいいことをしたと自分を責めている。

紀元節を祝う日、宮中では皇族、勅任官の拝賀があり祝宴が催された。皇軍の兵士には、朝食のときに酒と折り詰めが支給され、感激のうちにこの日を過ごした。

今日、山形岳風会では、優秀吟詠大会への出場者を決める予選会が行われた。合吟では、自分の所属するチームが予選を通過し、東北大会への出場が決まった。独吟では、予選の通過はかなわなかった。聞く人へアピールできる吟を届けることの難しさをあらためて知らされた。


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