常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

恵みの雨

2017年05月13日 | 日記


予定していた山行が雨のため中止になった。楽しみして山歩きが出来なくなったのは残念だが、雨を喜ぶ気持ちもある。夏野菜の苗を定植しながら、農園の仲間の人たちとの会話はもっぱら少雨が話題である。「夕べ雨が降ったみたいだけど、もっとしっかりした雨が欲しいね」「そうそう、このくらいの雨では表面が少し濡れた程度だね。」「まったく雨が降らずに困ったよ」と言いながら、如雨露で水やりに余念がない。

チャペックの『5月の園芸家』には、雨を待つ園芸家の会話が続いている。いま、畑で作業をしている我々と変るところはない。恵みの雨にも色々ある。日照り続きで、ぐったりとした人や草花を元気にするのは、雷鳴ととも降り出す「土砂降り」。しかし、小躍りして喜ぶ園芸家たちの頭上は、たちまち日が出て、30分ほどで止んでしまう。そうしているうちに降り出すのが、「糸のような雨」。

「ほんとうの、おだやかな、いい雨だ。ひろい範囲にむらなく静かに降る、みのりゆたかな雨。はねを飛ばし、とうとうとみなぎり流れる豪雨ではなく、しとしと降る、やさしい、気持ちのいい、しずかな霧さめだ。やさしい霧よ、おまえのしずくは一滴だってむだに流れはしない。」

こんな園芸家の気持ちを逆なでるように、その雨雲が行ってしまうと、かっと照る太陽が再び姿を現す。「いかにも5月らしい雨でしたねえ」という園芸家の会話をよそに、畑には水蒸気が立ち、まるで温室のような状態になっている。5月は、落ち着かない、ストレスのたまる月である。
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吾亦紅

2017年05月11日 | 読書


結城嘉美『やまがた植物記』は、大変面白い植物エセーである。著者の結城嘉美氏は、学校の先生のかたわら、教員植物科検定試験に合格し、山形中学で長年博物科を教えた。その後山形市教育長、山形博物館長を歴任、いわば山形の植物学の泰斗である。そのなかに、「われもこう」という一項がある。私はこのブログに3年ほど前、歌手のすぎもとまさしが歌う「吾亦紅」に惹かれ、一文を書いた。この文が共感を呼んだと見えて、この文にアクセスする人がいまだに続いている。結城嘉美氏によると、ワレモコウの分布は、関東から宮城、岩手へと北上したが、山形には限られたところしか分布しないめずらしい種類であったらしい。

今では、山辺の農家で栽培されていたり、山形野草園の遊歩道の道ばたに生えているのを容易に見ることができるが、この項に書かれている昭和33年頃は、これを見つけることが貴重なことであった。結城氏へ仙山線の高瀬駅の付近に吾亦紅が野生しているという知らせが、友人の土井敬正さんから届いた。その場所は、戦時中のにわかごしらえの飛行場の跡で、山形刑務所の建設が始まっていた桑畑の一角であった。その場所で行き会った二人が探して見つけた吾亦紅は、わずか三株であった。この場所に置いておけば、絶滅も危惧されたので、二人は一株づつ持ち帰って自分の庭に植えた。

羽前には一株で候吾亦紅

結城氏はこんな風にしゃれて、二人で笑ったと書いてある。縁は異なもので、私はこの土井敬正先生の家に間借りしていた。会社勤めをして間もなくの頃、薬師町で千歳公園の近くに土井宅の一室を借りた。同じ間借りに、大学の研究者で若き大川健嗣さんもいられたように記憶している。土井先生は私立の高校の先生で寡黙で、いつも鉢植えの植物の世話をしているような人であった。同じ年ごろの息子もいて親しくなったがその後何十年も会ったこともない。土井宅にいたのは昭和39年頃であるから、持ち帰った吾亦紅は庭の隅で増えていたに違いない。当時植物には何の興味もなかったので、それがあったことを見たことも聞いたこともない。
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牡丹

2017年05月10日 | 


何年振りかで植木市に行く。雨が降るとは思っていなかったが、昼過ぎてから雨になる。かつての新築西通りは、道が広がり見違えるような通りになっていた。平日とあって市への人でもさほど多くない。焼きそばやたこ焼きなどの屋台が多く並ぶ。昔は大きな植木が道路に溢れるように置かれたいたものだが、淋しい市になったような気がする。もっとも、植木を買うつもりないのだから、別に不満があるわけではない。

光禅寺の庭園に牡丹の花を見に行く。このところの高温で、花は開ききって、見ごろは過ぎていた。この庭園には牡丹の大きな株が10以上あり、やはり豪華に咲き競う。牡丹の花の王として愛でたのは中国・唐の貴族たちである。

 牡丹 皮日休

残紅落ち尽して始めて芳を吐く

佳名喚びて百花の王と作す

競い誇る天下無双の艶

独り占む人間第一の香り

梅の花をはじめとする中国の花は、桃を経て、晩春を締めくくるのは牡丹である。この豪華な花は、楊貴妃のような豊満艶麗な美女の比喩として、しばしば詩に詠まれてきた。
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藤の花

2017年05月09日 | 万葉集


山に自生する藤に先駆けて、公園の藤棚の花咲きだした。藤は桜とならんで、日本人が古くから愛した花である。古事記には、藤にまつわる話が出てくる。新羅から渡来した美しい乙女、伊豆志袁登女をめぐって、男たちの求愛がくり広げられた。その中の一人、春山之霞壮夫という青年がいたが、彼の母親が、息子のために衣装と弓矢の揃えを、すべて藤の木でしつらえた。息子をかの乙女にあわせたところ、衣服や弓矢から藤の花が一斉に咲きだした。その花のあまりの見事さに乙女は心が動かされ、この青年と恋に落ち、やがて結ばれた。

この逸話から想像できるが、麻のように、藤蔓から繊維を取り出し、衣服の素材として用いられた。衣や麻の糸が普及してくると、藤で作った着物は、仕事着の役割を果たしたのでないかと、ものの本には書いてある。藤の花の美しさは、女性の心を動かす力があったことから、古代では霊力を持つ木として尊重された。

恋しけば形見にせむとわが屋戸に植ゑし藤波いま咲きにけり 万葉集巻8 山部赤人

藤波は女性のふくよかな黒髪を連想させる。その黒髪の持ち主とは縁が切れてしまったが、この季節になって咲き、その面影を偲ばせる。赤人の余情に富んだ歌である。


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射干

2017年05月08日 | 


長年歩いている散歩道、旧蔵王工業高への坂道に射干の花が咲く。先日、久しぶりにこの道を歩いたところ、射干の群が大きく広がり、道の両側にある林の林床を塞ぐ勢いで咲いていた。このアヤメ科の花は、日当たりのよいところではなく、木々の陰のやや光が届かない環境を好むらしく、驚くほどの増え方である。この散歩道で色々な人と顔見知りになった。年金会館の上で農作業をしている農家の人たち。飄々と散歩を日課にする元気な叔父さん。皆この地で長く住んでいいた人ばかりであるが、一人、二人と顔を合わせなくなっている。その消息を知っているわけではないが、顔を見ないのはうれしいことが起きているとは考えにくい。こうして、顔見知りの人たちとの輪も年ととも変容していく。まさに、年年歳歳、人同じからず、ということか。

くらがりに来てこまやかに著我の雨 山上樹実雄

それにしても雨が降らない。雨を欲しがるのは、ひとり射干の花ばかりではなく夏野菜の苗やこれから蒔く種も同様だ。購入した野菜苗を畑に定植した。これから、空模様を見ながら、野菜たちへ水やりのため、畑に通う日が続きそうだ。

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