常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

金木犀

2022年10月03日 | 日記
今朝、散歩道で金木犀の花が咲いていた。知人宅で1週間前に咲きはじめだったから、木全体に黄色い花をつけている。香りと花で、いつも通る道にこれほどあったのかと驚かされる。春の沈丁花、夏のライラック、そして秋の金木犀。香りがその存在を知らせてくれる代表的な花だ。この花が終わると、秋の花も次第に寂しくなっていく。八百屋さんの店先に、葉のついた大根も並べられるようになった。

木犀を歴訪すべき散歩かな 相生垣瓜人

妻は昭和の食べ物の貧しい時代を生き抜いてきたから食べものを無駄にしない。大根の葉も、大きい葉のついたものを喜ぶ。これからの季節、おでんやぶり大根がおいしいきせつだが、葉を刻んで浅漬けにしたり、みそ汁の具に用いて捨てることはない。先日、ブックオフから北村薫『詩歌の待ち伏せ』という本を買ったが、そこに昭和の食生活を語る懐かしい句があった。

芹の根も棄てあざりし妻と若かりき 加藤楸邨

加藤楸邨は埼玉県春日部の中学校で国漢の教師として教壇にたっていた。この句は昭和45年に詠んだものだが、かつての春日部の教師時代を回想したものである。根も棄てずに、油できんぴら風に炒めたものが好物であった。若い妻の、そんな食物を大事にすることに共感することで、好物になったような気もする。

平成中ごろであったか、スーパーに刻んだ野菜が並ぶようになった。知人の奥さんが、それを買っているという話を聞いてショックを受けたものだ。それから20年、刻んだ野菜どころか、調理済みの総菜がこれでもかと並んでいる。世界が食糧の不足がやってこようとしている時代、芹の根や、大根の葉を大事にする昭和の食生活は復活して欲しいものだ。
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禿岳

2022年10月02日 | 登山
禿岳は鬼首盆地の外輪山になっている。南に小柴山、大柴山、北には神室岳が峰続きになっている。久振りの禿岳であるが、絶好の好天に恵まれた。10月の最初にしては、汗をかくような夏の気候だ。紅葉には少し早かったが、青空に浮かぶ秋の雲、山中の木陰で吹いて来る心地よい風に癒される秋の山歩きであった。

まばたいてをりぬ秋嶺ば かりみて 藤村多加夫

山中の歩行距離5.3㌔、歩行時間3時間30分、休憩・昼食1時間30分、登り511m、下り508m。ほぼコースタイムの歩きであった。やや急な坂にはロープが張られており、下りにはロープをつかんでの下山となった。下半身の安定感はいまだしだが、足の疲労はさほどでなかった。この日の参加者は5名、内男性2名。

これからの山登りは、この程度、身体に負担のない山選びということになろうか。帰宅して烏賀陽夫妻の『ゆっくり山旅』を再読する。「岩手山はどう考えても私たちには無理」というコメントがあった。そういえば、宮沢賢治の農学校の教師時代に、課外事業に「山登り」があった。夜、麓を出発して朝の御来光を見るという厳しい授業だ。寒さに備えて、身体に巻きつける新聞紙を持参した。頂上で焚火、その後お鉢周りをして下山。若いエネルギーがあればこその賢治の授業であった。数年前の岩手山を思い出にして、もう若い人の真似はできない。
コメント (2)
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