与謝野晶子 ~シベリア鉄道で巴里へ
明治45年、巴里に渡った夫、鉄幹に逢うため、与謝野晶子はウラジオストックに向かった。
シベリア鉄道経由で巴里に行くためである。
船旅が主流の当時、それは最速で巴里に行く方法だった。
船で40日かかるところ、鉄道なら10日あまりで巴里に到達することができたからだ。
それにしても、そのとき彼女には7人の幼い子供がおり、みんな日本に残してのひとり旅である。
”情愛の女”の、ひとことで片付けられない何物かが、彼女を突き動かしたのだろうか。
晶子の碑がウラジオストックの極東大学東洋研究所の前庭に置かれていた。
晶子や物に狂ふらん
燃ゆる我が火を抱きながら
天がけりゆく、西へ行く
巴里の君へ逢いに行く
このとき晶子、34歳。
久しぶりに堺市の「利晶の杜」を訪ねた。
中世の貿易により、黄金の堺が出来上がった。
「利晶の杜」のもう一人の主役は千利休。
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