今日は私たちの認識の仕組みについて考えてみましょう。認識という言葉を難しく考えないで下さい。普通にものがあることを知り、それが何であるかを知ることです。
机の上に何かがあります。何でしょう?
「机の上に白いコップがある。」私たちはこの写真を見てそう答えます。誰もがそう認識しますね。
話がややこしくなりますので、この際、机と白いという認識は置いといて、「コップがある」という認識だけを考えてみましょう。
今もし、この写真を見たものが、「コップ」という名前を知らなかったらどうでしょう。つまりまだ「コップ」という名を学習できていない人がいたら、この人はどう答えるでしょうか。
「丸い筒のようなものがある。」たぶんそう答えると思います。「コップ」という名を知らなくても、コップの形状を伝えることばでそれを伝えてくれるのです。
ではもし、この言葉を知らない人はどうでしょう。この人は形を表す言葉を何らかの理由で学習できていないために、「何かがある。」そう答えるしかないでしょう。
何かがあるという認識は、まだ物の有無を知っている証拠です。つまり、テーブルがあって、その上には普段何もないということを知っているのです。それゆえ、テーブルとコップは別々のものだという認識があるわけです。
そしてそこに「何」という問いかけがあることを見逃がしてはなりません。人はわからないものに対して、何?という問いかけを発します。そこに知性の始まりがあるのです。人としての知性がここから生まれます。
知性は問いかけと教えによって急速に認識する世界を広げていくのです。
では、この「何」さえない人がいたとしましょう。この人がコップをみてどんな認識を持つでしょうか。
それはもはや認識とは言えないかもしれませんが、しかし目の前にコップがあるのです。それを見てこの人は、「これ」という認識を示すしかありません。
「これ」という認識には、もはやコップはすべての中に埋没して、見える風景の一部でしかないでしょう。コップとテーブルが別々のものという知識はなく、その背景も含めて、見えている全体を指して「これ」という認識にしかならないわけですね。
ではさらに、「これ」という認識もなかったら、人は唯ぼんやりとした明暗だけを感じていることになります。
この人にとっての認識は「光」ということになりますね。
ではでは、「光」さえなかったら、この人の認識はどんなものと考えられますか。言うまでもなくそれは体内の感覚ですね。
分かって頂けるでしょうか。私たちの認識を遡ってくると、最後は体内の感覚、すなわち自己意識そのものになってしまうのです。
すでに想像されているでしょうが、私たちは人間の成人から遡って胎児まで戻ってきたわけですね。
認識はこのように、意識から生まれていることがわかります。つまり私たちの本質は意識という空間だったのです。意識から認識が生まれ、「何」という問いかけが芽生えてそこから人間特有の知識が大きく成長する。これが人の心の歴史だと思うのです。
以下はそれを図にしたものです。
ここで使う図は、「のしてんてん系宇宙論」から転載しています。ついでですが、当ブログでは、5次元の考え方を童話にした「スケール号の冒険」も紹介しています。興味がある方はそちらもお楽しみください。
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