自我の思考と神の思考、この二つの思考の違いを理解すれば私たちは自然に神の思考で生き始めるようになる。なぜならそれだけ神の思考には深い喜びと幸せがあるからだ。
二つの思考を分かつ決定的なものは認識主体の違いにある。
自我の思考は自分の幸せを中心に考えるのに対して、神の思考は、人の幸せを考える。
自我の思考は、自分の内側に閉ざされたエネルギーの充実を願うのに対して、神の思考は自分を包んでいる宇宙のエネルギーが安定することを願う。
「自分の幸せを願う思考」と「人の幸せを願う思考」の違いがそこにはある。
ただ難しいのは「人の幸せを願う思考」を理解すると必ず立ちはだかる壁があるということだ。その先に進むためにはそこに穴をあけなければならないのだ。
誰もが、神の思考を得ようとして人の幸せを願う。しかしそれ自体が大きな落とし穴になっていることに、私たちは注意を向けなければならない。
ひたすら人の幸せを願っても、本当の至福はやってこない。あげくはこれでは自分は損をするばかりだと不平を漏らすことになる。そしてあなたは自我の思考から一歩も出ていないことに気付くことになる。
神の思考を得ようと努力すればするだけ、深いところに自我の壁が現れる。一度や二度は必ず思い知る時が来る。私は完全に自我の壁に閉じ込められていると気付くのだ。
激しい絶望感や幽閉感覚に陥るだろう。だがそれは成長の証しなのだ。
自我の壁に息もつけないほどになったら、壁に穴をあける決心が生まれる。
あなたはツルハシやドリルを手にして自我の壁に穴をあけ始める。
自我を穿つドリルとは何だろう。それこそが人の幸せを願うこと、本願なのだ。
あなたは本願を持って、自我の壁に穴を穿つ。
本願は必ず自我の牢獄に風穴を開けてくれる。
穴が開いたら、外から宇宙のエネルギーが流れ込んでくる。そのエネルギーが本願に働いて共振し、あなたは初めて神の思考に触れる。
無尽蔵のエネルギーが思考の主体に変わる。そうするとあなたは、今こうして思考しているものは自我を包み込んで広大に広がる宇宙そのもの、神なのだと理解する。
自我に収まりきれない至福があなたにやって来る。
これが「自我の思考」と「神の思考」の違いだ。
紙に〇を描く。
〇に囲まれた領域に苦楽を生み出す自我の思考が生まれている。
〇の外に無限の空間がある。自我の思考は、それを自分とはかかわり知らぬ世界と決めつけている。それが自我の壁を作っているのだ。
〇の内が自分で、外は自分ではないと誰が決めた?そんな法則はどこにもない。何世紀もわたる人類の思い込みに過ぎないのだ。
〇の外を自分と考える。外には誰がいる?もう分かるだろう。そこは全人類の共有する空間だ。この空間を認識主体にして生まれる思考は、人の幸せを願う思考に決まっている。
神の思考は全人類が共振するエネルギーを放つ。目覚めた人々はどんなに離れていても共振し合う。私たちは一人ではなくひとつなのだ。
「浄土」苦楽から「浄土」本願に描きつなぐ骨格がやっと見えて来た。
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