道から50センチは積み上がった雪の上に立つと、そこには古い足跡がその斜面をぶどう棚に沿いながら下っているのが見えた。雪はまだ深く私の足を奪い、ブーツの中にも構わず冷たいものが入り込んだ。
私は斜面をまっすぐに下って国道に出ようと思っていた。人家に出れば何かが聞けるかも知れない。ぶどう棚の杭を支えにして注意深く足を運んだ。雪の肌に全身を集中させなければ、吹きだまりに足を奪われて雪まみれになるのだった。
雪原を半分も進めば、汗が出てくる。杭にしがみついて私は息をつき、しばらく動けなかった。
そこからずっと横の方に広がっていくぶどう棚が見え、それを果てまで追っていくと、下りてきた道路が続いている緩やかな山の山頂まで方形のぶどう棚が見えている。その光景はなぜか私の情操に不思議な波紋を投げかけた。
四辺に杭が立ち、それが雪の上で灰色にみえる。その杭に張られた針金が幾何学的な方形を作り、黒く見えたり、輝やいたりしている。それは私に荒涼とした感覚を与え、夏が来ればここは一面のぶどう園になるんだという私の想像を妨げて、その情景はなかなか私の頭の中で像を結ばなかった。にもかかわらず私は次の一節を知らぬ間に想起する。
これは信愛のために美をなげうったものの姿です。
山嶺に近いブドウ園のカテージの窓によった
若い母親と嬰児。
ここで見える海の色は
乙女の夢と乙女のまなざしを思ひかへして
若母はふと寂しみはしないか。
伊藤整の詩「葡萄園にて」はきっとこのあたりが舞台であろうと思えたのだ。
そう考えると私は咄嗟に、今自分は伊藤整の詩の裏側に立って骸骨のようなぶどう棚を見ているという、そんな錯覚の中にさまよい込んだ。
HPのしてんてん
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