のしてんてん「道」S50 号キャンバスに鉛筆
草の根の活動家を追悼するために依頼を受けて作成した画像
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身体と空体のイメージが確立すると自分の全体像が宇宙大に拡がります。
身体と空体をつなぐ現実的な体感、それが最も身近に起こっている呼吸であると知ったら、
生きている限り繰り返される呼吸のリズムが私を全一の宇宙に誘うのです。
最初、コインの裏表のような存在という理解だった身体と空体です。
そこでは当然、二つは互いに相関しあう個別の認識主体として世界を認識します。
身体は時間の概念で世界を認識し、空体はスケールの概念でどこまでも広がる空の存在を認識するのです。
これらは身体か空体、どちらを意識するかによって変わってくる世界観なのです。
たった今まで、私はそんな意識をもってこの認識論を進めてきました。
ところがさらにその次元を超える驚くべき認識方法があったのです。
そこでは身体と空体という個別の認識主体が一つになるのです。
するとそれが、おそらく人間の体験できる最高の認識世界となるかもしれません。
意識を変革することでそれは起こります。
つまり新たな意識によって身体と空体は、完全な一つの存在として認識できるようになるのです。
認識論を終えるにあたって、
人間の一番深い部分に
光をあててみたいと思います。
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五次元(新たな認識能力について)
最終章 認識論の意味
(人間存在)
十人十色、人はすべて違っている。そして同時に人はみな同じ存在である。
その根拠は言うまでもない、この宇宙にある。
人がすべて違うのは宇宙の中にある己の存在地番がその根拠である。
一人として空の中に重なって存在するものはいないという意味だ。
そして人が皆同じであるというのは、宇宙の根源である空にその根拠があるのである。
その空は何処にも切れ目のない全一の存在である。万人はみなただ一つの存在である空のエネルギーなのだ。
(世界とは認識である)
真実は「 」である。
(「 」は言葉にならない真実そのものを表す私の工夫)
その真実を「世界」として思い描く
これが認識なのである。
つまり、真実である「 」を概念によって秩序付けることで世界を認識しているのだ。
言い表せない真実「 」の、括弧の中になにがしかの言葉を認めた瞬間、真実は「 」から認識にとって代わるのである。
(概念と認識)
認識とは真実の世界の「 」を、概念によって秩序付けした世界像のことである。
概念というものを知ろうが知るまいが、道端の花を認識する人はそれだけで四次元の概念をもって世界を見ているのである。
花を見るだけで、花と背景を区別し、美しいと感じるだけでその背景にある時間を意識している。
否、四次元の意識(四つの概念)があるからこそ、路傍に咲く花を知り、美しいと心を動かすのである。
そこでこの概念が人間の認識世界にどう関わっているのかを見ていくことにしよう。
そのためには自分のイメージを実際に体験するしかないので、これからの検証をどうか付き合っていただきたい。
その方法は今あなたにある認識世界から、もし時間や奥行の概念がなかったら世界はどんな認識になるのかを内観し、その風景を確かめてみてほしいのである。
私の誘導する風景ではなく、あなた自身に見えている認識世界に意識を集めていただきたいのだ。
さっそく、今あなたが思い描いている認識世界から、一つずつ概念を消していくとどんな世界が見えてくるかを感じていただきたいのである。
ただし時間の概念は無意識の部分にも浸透しているので、それを消すのは厳密には難しいが、
時間の概念を消してみるという意識を持つだけでOKとしましょう。
見えてくる世界をしっかり確かめてもらえれば幸いである。
(五次元の世界観)
五次元とは、「スケール・時間・上下・左右・前後」という五つの概念で、真実「 」を認識する世界観である。
身体は時間に縛られた存在であるが、五番目のスケールの概念によって自分の大きさが宇宙に拡がっているのを知る。
そのため、自分という意識は宇宙観全体に広がり、自分の存在が神と等しいことを理解できる認識世界を持つ。
もちろん五次元が認められない方は、次の四次元から初めていただきたい。
その時、あるいは自然に心が五次元に向かって開かれるかもしないだろう。
(四次元の世界観)
五次元から「スケール」の概念を引き去ると、
認識は、「時間・上下・左右・前後」の四つの概念によって描き出される世界になる。
これは説明を要しないだろう。今ここにいる我々人間がそれどれに思い描いている世界観そのものである。
自明のことだが、四次元の認識は、時間に縛られた存在であるという認識世界から一歩も出ることが出来ないだろう。
なぜならこの認識レベルでは、時間が世界を認識するための中心柱となる概念であるからである。
三次元の世界を、時間が意味づけを行うことで、認識世界を作り上げていると言ってもいいだろう。
いうまでもなく時間の概念によって人間は自然を凌駕するほどの発展を遂げた。その反面、様々な苦悩を抱えることになったのである。
(三次元の世界観)
四次元から「時間」の概念を差し引くと、世界は三次元の認識だけになる
三次元とは、空間とその中にある存在の姿をありのままに認識する世界観のことであろう。
時間の概念がないと、世界は立体的に認識されるが、目にする世界の変化には気が付かないだろう。
時間の概念がなければ、動いていく世界の瞬間瞬間を、ただ無批判に眺めるしかないのである。
つまり咲いた花が枯れて実を付けても、その二つの関連をつなげて理解することは出来ないのである。
世界は一瞬一瞬の静止画像のように認識するしかない世界観を想像できるだろうか。
誤解なきように付け加えれば、三次元の世界観と言っても、実際の世界が四次元で眺める世界と違っている訳ではない。
見ているのはあくまで同じ真実「 」の世界だということである。
違うのは時間の概念がないということだけなのである。
これは以下、同じであることを念のため付け加えておきたい。
(二次元の世界観)
三次元認識の概念から「上下」の概念を取り去ると、二次元の世界観になる。
世界は平面にしか見えなくなる。現実に空や地下が存在していても、それを理解できないという意味である。
空に雲が流れていても、それを自分とのかかわりで見ることが出来ないのである。
宇宙空間などは想像すらできない世界観になるだろう。
(一次元の世界観)
二次元の世界観から、さらに「左右」の概念を取り去ると、
世界は「前後」の概念だけで理解する認識世界になってしまうだろう。
世界は前と後ろだけでで認識するしかないのである。
この者にとっては、たとえ曲がりくねった道を歩いていても、一直線上を歩いている感覚しかないのである。
重要なことなので、世界が一直線しか存在しないのではないということをもう一度繰り返そう。一直線しかないのではなく、一直線にしか認識できない訳である。
つまり一次元人間は、私達が普通に見ている世界を直線にしか認識できないということなのだ。
(0次元の世界観)
一次元の世界観から、最後の概念を引き去ると、
この者には世界を認識する概念が存在しないことになる。
これがどういうことを意味しているのかと言えば、
概念を持たない人間には真実「 」を理解する手立てがないということなのである。
実際の風景を想像すると、一点から動かない植物の認識世界になるであろう。
思考に概念がないと世界はただ見えているものを、これ「 」という認識で世界を受信するしかないのである。
これ「 」という認識は、0次元から知識を積み上げて五つの次元を獲得してきた五次元認識の世界観とほぼ等しいというのが興味深い。
ここに認識論の本質が見えてくるのである。
(認識とは人間固有の能力)
認識とは人間固有の能力である。それは思考世界に秩序を与える概念を作り出すことだということが出来るだろう。
人間が習得できる最高の世界観から、概念を差し引いていくと、最後に概念を持たない人間に行きついた。
実際にそんな人間は何処にいるのかと言えば、赤ん坊を思い浮かべられるだろう。
赤ん坊は真実「 」そのものである。カッコの中になんの書き込みもないまま生まれてくる。
そこには万人に等しく適用される宇宙語が書きこまれているのである。
その宇宙語が、やがて人間の言葉に置き換わっていく
認識の成長は、目にする世界を秩序付けていく赤ん坊の知性にかかっているだろう。
赤ん坊は動くものを目で追い、這い這いをし、母親と共に命を体験する。
もちろん言葉を覚える前から、概念は形作られていくだろう、
それは母を認識することから始まっているのだ。
そして言葉がやってくる。
(認識は次元を超えて大きくなる)
認識は先の体験を0次元から高次元に向かって進み、そのたびに認識世界が倍増していくのである。
生物界の図式から考えてみると、
動かない植物(0次元)からミミズ(一次元)に進化し、それが犬(二次元)になり、鳥(三次元)に姿を変える。
そのすべてを持ちながら時間(四次元)の概念を習得して人間が生まれたと見てもいいだろう。
その人間がさらにスケール(五次元)を習得すると、いったい何になるのだろうか。
それを今時点で語ることはできないが、
認識世界は倍増して、はるか無限大の領域にこの身を広げる存在になるのは間違いのないことである。
再再度、申し述べることだが、その世界観の正体は一貫して同じ真実「 」を認識しているに過ぎないのである。
赤ん坊がつかんで生まれてきた真実「 」を、人間の叡智が深く理解を深めていく過程にあるということである。
それは五次元とて同じことであろう。
それはあくなき人間の、真実に至る挑戦なのである。
(概念は世界に生きる人間そのもの)
概念は決して自然の中にあるものではない。
赤ん坊は宇宙語から人間の言葉に切り替えていく。その過程の中で概念を習得するのである。
何を言いたいのかと言えば、
認識を形づける概念は100%人間の側にあるということなのである。
そしてこれが意味しているのは
四次元から五次元を取得するのは人間の力以外にはないということである。
その力を神に丸投げしてもいいだろう。
しかし人間にはそれを自ら成し遂げる可能性を認識力の中に秘めているのである。
すなわちそれが、世界を秩序付けるための概念を生み出す力なのである。
スケールの概念は、上図のような世界認識をもたらす。
これは、身体をベースにした四次元認識からレベルを上げた、言葉通り次元を超えた認識を示している。
自分という存在は、身体と空体という二面性を持っているという理解なのだが、
実はその理解をさらなる深い理解に昇華させることが出来たのである。
それを最後に紹介してこの認識論を終わることにしたい。
呼吸をスイッチにして認識主体を交互に入れ替えて世界を認識することが出来る。
これまでそれが五次元の描く認識世界だと考えたのだが、
それだとまだ落ち着かない論理的な弱さを感じない訳ではなかった。
それが冒頭で書いたように、
身体と空体との、呼吸による相互運動が実は一体として認識できることに気付いたのである。
身体の吐く息は空体の吸う息のことである。するとどちらを意識するかで認識主体を身体から空体に変えることが出来る。
どちらの眼で世界を見るのかという意味である。
そうであるなら、この二つを一つの塊として認識できないのかとふと思ったのである。
すると答えはすぐにやって来たのだ。
すなわちこれは、身体と空体の交合あるいは和合。宇宙と身体が営んでいる、これはセックスと同じものなのだと。
すると、満たされて湯船に浸かったような至福感とは宇宙との和合によるオーガズムだととも言えるだろう。
オーガズムなら認識の限界を超えて宇宙と一体になる契機を含んでいる。
そしてそれは論理を超えて、実在そのものになり得る要素でもあるのだ。
セックスの高揚感は論理ではないのは明らかであろう。
それと同じものが五次元にはある。
五次元による身体と空体の和合した認識には言葉ではないもの
すなわち真実からくる感動が内蔵されていると考えることが出来るのである。
二つの存在が一つである条件は空に存在し
二つの存在を一つにするものは、身体の実感。すなわち至福と感謝と受け入れなのかも知れない。
五次元にはそこに至るための指導書たる宇宙語が含まれている
それはすでに
愛の結晶として
赤ちゃんの手の中にあるものである
了
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