日本画家 安藤康行展に行ってきました。
心の中に生まれる龍は、みなそれぞれに違います。そしてそれが素晴らしい。
展示室の中央に作家の声明が貼られていました。下の龍の図は伊万里・萬明山の禅寺に収めた襖絵。以来意識の中で、龍と共に歩んできたそうです。
保津川に霧がかかり、流れの誘われるままに下っていくと、霞がはれて天龍寺が現れる。そこに理解(啓示)が降りてきた。この寺が建てられたときからこの川(自然)は龍だったのだと。
茶を飲みながらそんな話を聞いていると、互いに見えない心の壁のどこかで通じる風穴のようなものを感じました。
作家の意志が啓示を呼び、外に向かっていた意識が内に向かう。そこに「自分の中にあるものでいいのだ」という思いがやってくる。そしてこんな龍が生まれたのだそうです。素材は和紙。
了解を得て、個別に作品を撮らせていただきました。全てに「龍考・・」と題された作品たちです。
「何でもいいのだ」という理解は、言葉にするとそれだけのことに聞こえますが、その言葉の奥には、創作者のすべてがかけられたドラマがあるように感じさせられました。
素晴らしい光明の一瞬だと私には思えました。
(展覧会は16日まで、阪急電車石橋駅歩いて3分)
>大日が姿を現すとき・・・
>霞が薄れるとき・・・悠々と保津渓谷を下り始める
登山中 濃い霧に隠れた山が
陽光のなか 一気に谷に下っていく様子が
脳裏に浮かびました。
自分も知らずして 龍をみていたのかもしれません。
龍というのは、人の心と自然の関わりののかで姿を現すものなのかもしれませんね。
誰もがみな、龍を見ているということなのでしょうか。
意識するかしないか。
そこなんだと、教えてもらったような気がします。
自分の中にあるものでいい…、そしてこの記事の最後の
”「何でもいいのだ」という理解は、言葉にするとそれだけのことに聞こえますが、その言葉の奥には、創作者のすべてがかけられたドラマがあるように感じさせられました。”
それがこうした…自然を視て、感じて…その閃きや力を『作品』に顕現して…
『作品と共に綴られた…併せての芸術作品』
『心象を描く』、のしてんてん様の最新記事の新作(箱の横の穴から龍が覗く作品)もそうですが、
こう、”心に触れるものがある…いいなぁ”と。
こうした記事に、感謝を…!
うまく説明できないかもしれませんが、伝わるということの喜びは、一体感が膨らむからなのかもしれません。
つまり芸術というものは、人が忘れている一体感を創造の探求によって思いだそうとする行為なのかも知れないのですね。
ものづくりによって自分を探求することは、忘れている一体感を思い出すためなのだと・・・
互いを結びつけるため^に^