心の根源に向かってのしてんてん龍
今回は五次元の世界をイメージ図から見て行きます。
1、思い描くことのできる最大の世界
私(ピンク)が世界の中心にいて、意識が自分の外に向かって拡がります。見ることが出来る一番遠い処は星の光ですね。その向こうは無限の空間が広がっているという想像しかできません。
科学は天空に無数の銀河が存在することを明らかにしています。その銀河をスケールの概念で見ると、銀河は素粒子の集まった自分と同じ一つの生命体だと想像することが出来ます。その生命体(神ヒト)の体内にある自分の悩みは小さいものだと思えてくるのです。
2、思い描くことのできる最小の世界
思い描く最小の世界は、私(ピンク)の内側に向っていく。科学は今、その内側の最小のものを素粒子と認めています。私の体内空間に、極大の宇宙の星と同じ数の素粒子が浮かぶ宇宙が存在する、これは科学的な事実と考えていいと思います。
スケールの概念を使うと、この素粒子の上には自分と同じ素ヒトが棲んでいて、自分と同じ生活をしていると想像することが出来ます。自分の悩みを素ヒトに投影すれば、自分は神の目で素ヒトの悩みを見ていることに気付くのです。
3、五次元の世界観
五次元は時間とスケールの座標として理解することが出来ます。この時、図の小さな楕円は、その場所で認識できる最大の三次元空間を表しているのです。
今この時にいる原寸大の私たちが思い描くことが出来る最大の世界は、座標原点から見る三次元空間(図の中心にある楕円)であり、過去の極小の世界は右下(min past)の楕円の世界であることを示しています。
四次元の世界観は、(future)(naw)(past)の三つの世界だけを認識しているのに対して、五次元の世界観は、全体で9つの世界を認識する巨大な世界なのですね。
重要なことは(naw)の世界は、手に触れられる現実の世界だということです。
(max naw)の世界も、(min naw)の世界も手に触れることのできる現実の世界だという気付きをもたらしてくれるのです。
地面に触れれば、それは地球に手を当てていることであり、同時にそれは(max naw)に棲む神ヒトの素粒子に触れていることである野です。同じように、この胸に手を当れば(min naw)に棲む素ヒトの宇宙に触れていることになるのですね。
スケールの軸によって、私達は無限に広がる実在の世界が自分の手足のようにつながっていると理解することが出来る訳なのです。
五次元とは、このように無限大に拡がる自分を、単なるイメージではなく論理的に描きだすことが出来るのです。
するとこういうことが起こります。
たとえば、心が苦悩で支配されているとき、深呼吸をするだけで、心が五次元に向かいます。
深呼吸が、自分の身体に意識を向けてくれるからです。するとその意識が、自分は思っているようなちっぽけなものではなく大宇宙と直接つながっているという実感に変わります。
大宇宙から見たら、今まで感じていた苦悩を客観的に思えるようになります。思いが苦悩から離れて宇宙とつながったら、苦悩は消え去り一瞬心は至福感で満たされます。
なぜなら、苦悩は身体から心が分離し、身体=宇宙を忘れた心だけが妄想の中で迷っている状態ですから、五次元の思考は、そんな迷いを(身体=宇宙)に気付かせてくれるからですね。
至福感は、この(身体=宇宙)の中に身を浸しているときの感覚だと私は思っています。つまりのんびりと湯船に浸かっているあの気分です。
五次元は、自分を見失った心に癒しを与えてくれるのです。
「自分はダメだ」という思いは、五次元宇宙では「これでいい。自分はそのままで自然だったのだ」「ありのままの自分でよかったのだ」という理解に変わる気付きがやってくるのです。頭で思うのではなく、身体がそう理解する瞬間が突然訪れます。言葉にならないけれど、スッと光が差してくるさわやかな気分。
それが癒しの意味だと思うのです。
自分の中心に自然がある。
正しいも、誤りもない。ただ在るだけでいい。そんな自然に貫かれている。
この不動の杭が五次元の概念を使うと見えてくるのです。
もちろん、五次元とは時間とスケールの織りなす世界であるわかですから、当然人との関わりを忘れることは出来ませんよね。
人との関係とは社会のことです。社会に出た途端、時間軸が動き出します。時間の中で生きながら、スケールの軸に貫かれた自分を意識し続けるということが何より大切だということです。
社会の中で五次元の意識を持ち続ければ、誰もが個性の中で自分を幸せにする自然の流れにめぐり会うことが出来る。それは芸術だけでなく、すべての趣味や職場、家庭の中で見出すことが出来るでしょう。
五次元とはそういうものだと思うのです。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
過去記事
スケール号で旅したとき出遭った神ヒト様も自分だって思うのは無理があるんだけど。
それはね、空間に隔たりがないからなんだよ。つまりどこまで行っても一つということは分かるよね。
スケール号に乗って神ひと様に会いに行ったとき、覚えているかな?私たちはずんずん空間の中を進んで行っただろう。
もしその空間に壁があって、私達と神ヒト様の間に溝とか壁があたらスケール号はそれ以上進めなかったはずだ。
つまりね、ぴょんた。私達の体を創っている素粒子も、神ヒト様の身体を創っている地球も、同じ一つの空間に浮かんでいるんだよ。
身体の方(物質)を見るとみな別々に見えるけれど、それらはみんなたった一つの空間に浮かんでいる。だから空間から見るとみんな自分だと言えるんだ。
考えてごらん、いやなことや嬉しいこと、それにこの考えにしたって、それは何だと思う?
それはみな空間なんだ。私はここにいるが、もこりんの中にいる私は、もこりんの頭の中でイメージした姿であって私じゃない。
私が君の頭の中に入ることなんで出来ないじゃないか。
これも空間がイタイと言っていたのダスか。
でも博士、それならこの痛み、もこりんにも分かるはずだスよ。それなのにこいつ、笑っていたのだスからね。
頭で考えていることもそうだろ?人の考えは見えないし分からないよね。
みんなの身体は素粒子で出来ているのは知ってるだろう。その素粒子を引き止めるために空間が力を出しているのだけれど、そのためにぐうすかの痛みや考えは外に出ていけないんだね。
でも大事なことは、その空間はたったひとつだってことだ。物質を解放したらみな一つになる。空間というのはエネルギーのことなんだろうね。
これが、神ひと様も自分だと言える根拠なんだ。