ここから塩谷の海岸がよく見渡せた。それは伊藤整が涙にくれて漂う海であり、かつては彼の青春が浜風を一杯に受けて力強く帆走した海であった。西には忍路のある岬があり、その向こうにはローソクの炎のように突き上がった余市の岬が重なるように見えていた。そしてさらにその向こうには積丹半島がかすみ、目を転ずれば東に小樽へ続く海岸が弓のように伸びている。その石狩湾の外は日本海なのだった。
伊藤整は若く多情な時期をこの海を見て育ったのだ。彼の青春はこの海と共にあった。時は移っても変わることのない海を前にして立っていると、恋人を思い詩想に耽っている伊藤整が私の中で重なるように思えた。すると、忍路の岬がおぼろに霞んで見え、それは私が見ているのか伊藤整が見た風景なのか分からなくなる。
おそらく、この辺りは、秋には葡萄の実がたわわに実り、甘い香りを漂わせていただろう。
そう思い巡らせていくうちに、私の脳裏に里依子の姿が浮かんできた。すると急に現実の空気が私の肌を刺した。このままでは里依子と連絡を取ることが出来ないことに気付いたのだ。
里依子は私がワシントンホテルに泊まっていると思っているだろう。彼女からそこに電話をするという約束になっていたのだ。そこに宿が取れなかった以上、里依子からの連絡は望むべくもない。彼女がもし、今日寮に帰らずこの小樽でいるのなら、私の方からも連絡のとりようはない。明日会うことも出来ないことになる。
そう思うと急に心配になってきて、考えあぐんだ末ホテルに伝言を依頼するしかないということの他は思い浮かばなかった。
とにかくもう一度ホテルに電話してみるしかない。そう思って私はようやくこの地を離れる決心をした。
HPのしてんてん
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