(黒い星 キャンバスに鉛筆 P0)
「のしてんてん系宇宙」の第一章を見直したい。
前回に続き、何回かに分けて、第一章のしてんてん系宇宙を見ていくことにしたい。
第一章は、タイトル通り、五次元の概念から見えてくる宇宙の構造を述べた部分であり、のしてんてん系宇宙のイメージを得るために設けた章です。
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第二節 のしてんてん系
1、のしてんてん系の無限
のしてんてん系の無限はスケール(大きさ)の中に存在する。
一言で言えば、のしてんてん系の世界は、限りなく小さな場から限りなく大きな場まで、間断無く続いて行く無限のスケールの系なのである。
誤解してならないのは、スケールの系と言っても、物自体が大きくなったり小さくなったりする世界ではないということである。 このスケールの系を正しく理解するためには、観察者とその対象の持つスケール的な関係を、見なければならない。
例えば観察者が1/2のスケールになると、その対象は2倍の大きさに見える。更に観察者が1/4のスケールに縮んでしまうと、見ている対象は4倍の大きさに見えるはずである。こうして観察者が限りなく小さくなって行けば、逆に対象は限りなく大きくなって行くであろう。あるいは反対に観察者が大きなスケールとなれば、当然対象は小さく見えるようになるのである。
このそれぞれの観察者の大きさをスケールの場と言うのであって、このようなそれぞれの大きさの連なりをスケールの系と呼ぶのである。
のしてんてん系はまさにこのスケールの系がつくり出す世界なのである。
また、のしてんてん系を数学の概念から言えば、「0」と「1」の間に存在する無限連鎖であるとも言う事が出来る。しかしこの事については、もう少し後で述べることにして、私達はまず、のしてんてん系について具体的な事象を見ながら考えて行くことにしよう。
2、のしてんてん系の観察
空に一点の黒い染みのように見えたものが、黒雲のようになり、やがてそれが鳥の大群であると分かる。
あるいは、新聞紙面に印刷された写真、例えばそこに人物の姿が写っている。しかし、これを拡大鏡で見ると、人物の姿は認められず、単なる黒い点の集まりのように見える。
これらの事象は、視野の大小によって、同じものでも見え方を変えるということを示している。
先の新聞写真の例をもう一度取り上げてみよう。
この写真を拡大鏡で大きくして見る代わりに、「私」=観察者自身が小さくなったと考えるとどう見えるだろうか。
例えばアリと同じ大きさにになって新聞紙の上を歩き回っているとしよう。この時、縮小した「私」=観察者が目にする新聞写真はやはり、人物を認めることが出来ず、ただ単なる黒い点の集まりとしか見えないであろう。
一方は見る対象を拡大して観察したものであり、他方は、見る者自身が縮小して対象を観察したのであるが、双方の見え方は、まったく同じであると言えよう。
顕微鏡はみる対象を拡大して観察する装置である。
普通では見ることの出来ないものを、人間の認識出来るスケールにまで拡大して、微細な世界を見るのである。
私は学生時代の顕微鏡を覗いた新鮮な感動をいまだ覚えている。何げなく見ていた木や草の葉っぱが、びっしりと小さな細胞の部屋で埋め尽くされているのを見て、私は小さな別世界に神秘的な夢を抱いたものだった。
電子顕微鏡はさらにその小さな細胞の中に、もっと微細な原子の世界がある事を突き止めた。その原子はまた、素粒子という小さな粒で構成されている事を、現在の科学は証明しているのである。
このように科学は、機械の力を利用して様々な未知の世界に自らの領域を広げているのである。
私達が行おうとしている、のしてんてん系宇宙の観察も、実はこれとよく似ている。
しかし私達が電子顕微鏡などの機械を使う訳ではない。私達は人間に与えられた空想の力によって、そのままでは見ることの出来ない、のしてんてん系宇宙を、観察しようというのである。その方法は観察者である「私」を設定することから始まる。
[私」=観察者は、自由に自分の大きさを変えられる空想の力を持っている。空想の中で[私」は自由に体のスケール(大きさ)を変えながら、のしてんてん系宇宙のスケールの世界を見て行くのである。
この想像は空想には違いないが、例えばアリというスケールを持つ生物が存在していることは紛れもない事実であり、私達がそのアリを通して見える世界を想像するのは単なる絵空事ではないのである。
そしてその想像は、決して根拠のないものではなく、顕微鏡でとらえる虚像と意味的に何ら変わるところはないと思えるのである。 いずれにしても、観察者は、自分の立っているスケールの場からでしかものを見ることが出来ないのであり、見えないものに対しては、何らかの方法で自分の立っているスケールの場と、その対象の持つスケールの場のギャップを埋めなければならないのである。
見えないものには二つの形がある。言うまでもなく一つは小さ過ぎて見えないものであり、他の一つは大き過ぎて見えない世界である。
この二つの世界を観察するために、私達は早速、「私」=観察者のスケールを操りながら、のしてんてん系宇宙の中に入って行くことにしよう。
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玉ねぎが無限に大きくなってい行くという空想は、頭の中で簡単に描き出すことが出来る。
ここでいうスケールというのはこの玉ねぎの皮の大きさのことを言っていると考えていい。
上の皮は、下の皮よりも大きい。
もし上の皮と下の皮が同じもの(相似)だとすれば、違っているのは大きさ(スケール)だけになる。
皮を無限に重ねていけば、玉ねぎは無限に大きくなり、皮を無限にむいて行けば世界は無限に小さくなる。
玉ねぎを無限にむいて行けるはずはないが、玉ねぎは理論をわかりやすくするためのたとえ。
この、「無限に玉ねぎはむけない」という考えをクリア出来たら、五次元の概念を簡単に理解できるようになるのだ。
ここで伸縮自在のスケール号が登場する。
玉ねぎをむいて行く。小さくなってこれ以上むけない。手のひらに米粒のようになった玉ねぎが乗っている。この時自分が縮んだらどうなるか。てのひらの玉ねぎがどんどん大きくなっていくのを見ることが出来るだろう。
普通サイズの玉ねぎ。またむき始める。小さくなったらまた、自分のからだを縮める。この空想は無限に繰りかえすことが出来る。
つまり私たちは無限に自分のからだを縮めて世界を観察するという想像力を持っているのだ。
これは認識論的には革命的な発想だと私は考える。
認識主体(私)の大きさは不変というイメージを覆す。変動する認識主体(私)を手に入れることになるのである。
私たちは自分の大きさを、普遍のものと思っている。しかしよく考えてみれば大きさというものは実に不確実であり、私たちは己の大きさをいかなるものをもってしても証明することはできない。しかしこれはまた別の機会に書きましょう。
私たちが住む世界(四次元空間)を平面として考えると、この一枚の玉ねぎの皮が今私たちが認識しているこの世界ということになる。
一枚の皮が、今私たちが認識している世界。認識主体(私)を基準にして見ている世界なのである。
下の皮は、小さなスケールの(私)が見ている世界。そして無限に小さな世界は存在する。
上の皮は、大きなスケールの(私)が見ている世界。そして無限に大きな世界は存在する。
そして一番重要なことは、
これらはひとつの玉ねぎだということ。
スケール軸が見せてくれる無限の世界は、同時に存在する一つの宇宙なのだということなのだ。
しかしよく考えてみれば大きさというものは
実に不確実であり、私たちは己の大きさを
いかなるものをもってしても証明することはできない(のしてんてん画伯)
そうですね。のしてんてんさんのおっしゃる通り、
私たちの大きさも
観察者が小さければ大きくなり、
観察者が大きければ小さくなり、
観察者がより小さければより大きくなり、
観察者がより大きければより小さくなり、
物自体が大きくなったり小さくなったりするのではなく、
相対的観点によって大きくなったり小さくなったり
相対的観点によって変動するスケールですね。
それこそ、素粒子スケール超えの視点から観ますと
砂粒の
中にも宇宙が
深まり行く未知
謎の惑星輝いて
渦潮渦巻く海原湛え
波打ち寄せる砂浜の
一粒、一粒、独創きらめき
砂粒の
中にも宇宙が
冴え渡り行く未知
でアンす^ね^;;
想像は創造と連動
想像出来ることは創造出来ること
今日も祈りを篭めて
よい想像(連動創造)をしましょうね♪
いつものしてんてん聖力☆!
有り難うございま^す^!
ゆうべは満月でした。
雲が広がって、たまにその満ちた顔を出していましたが、なかなか真っ白に輝くいい顔をしていました。
まかこワールドとのつながりは、この月を眺めているようなものかもしれないと思いながら一刻を過ごしておりました^よ^。
摩訶不思議奇跡宇宙と五次元が融合して満月のごとく天に輝く。
離れていても、スケールが違っても、満月を見上げる。そのことでつながっているわけです^ね^。
そう思いますと、まかこさん、文明の利器(PC)をささやかに使いながら、互いに満月を育てていける環境もまた奇跡ですし、この想像の力も、奇跡となって新たな創造を生むかもしれませんね。
こちらこそ、にばいのありがとうございます。
^で^す^よ^。。