(心の光 キャンバスに鉛筆 S 0号)
「のしてんてん系宇宙」より抜粋
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3、極小の世界
[私」が縮小してアリになると、アリそのものは大きな犬のように見えるだろう。
「私」の足元に広がる大地は巨大な岩が ゴロゴロ転がっている荒野に見え、その荒野の上に立っている人間は、雲をつく高さに見えるだろう。
その代わり、人間には目をこらしても見えないような砂粒が、「私」にはこぶし程の大きさをした石ころに見えるのである。
「私」のスケールを更に小さくしてみよう。
「私」が細菌と同じスケールになると、「私」はもはや人間の姿を認めることは出来ない。
その代わりに、人体の組織が大地のように足元に広がり、細胞が整然と並んだ水田のような風景として眼前に現れるだろう。その水田の上を、様々な形態をした細菌や抗体がうごめいている。
その「私」が、更に原子のスケールにまで縮小すると、組織や細胞などもその視界からは完全に姿を消し、「私」は原子の中に埋まるような形で、自身の姿を見ることになるだろう。原子は広い空間の中で、寄り添ったり離れたりしながら、疎密を繰り返して世界を構成しているのだ。
「私」が素粒子のスケールになると、「私」はもはや、素粒子が天体のように運動する宇宙空間に浮かんでいるばかりである。
あたかも、太陽の回りを惑星が公転運動を繰り返すように、電子と名付けられた素粒子が、原子核を中心に回転運動を、繰り返しているのだ。
さて、私達はここから更に「私」のスケールを縮めて行くことにしよう。
素粒子のスケールから離れて「私」が更に小さくなると、「私」は素粒子のうえに立っている一個の生物として存在することになるだろう。
「私」の足元には素粒子の大地が広がり、あたかも地球上の光景のような山河の世界が「私」を包んでいる。その頭上には果てしない大空が広がっているだろう。
私達にとっては、人間の極微な一部分と言う認識でしかない素粒子も、「私」=観察者にとっては、地球と同じ天体に外ならないのである。そしてその大地には、「私」と同じような生物が群れをなして生存しているかもしれない。
私達の地球が、この広大な宇宙の中で微妙なバランスを保つことによって、生命を存在させているように、人間の内部の果てしなく広がる素粒子の大宇宙においても、生命の存在すべき諸条件を満たした星が必ず見つかるだろう
私は、この素粒子を母なる地球として生存している生物を、「素人(もとひと)」と呼びたい。
素人なる生命体がいかなる形態をし、どのような生態を持っているのか、それは分からないし、またこの論の目的ではない。
ここではただ、私達と同じような生物的固体が存在するという事のみが必要であり、また重要なのである。
そこで私は、素粒子を地球に見立てたとき、その地上には人間と同じ形態を持つ素人が存在するという第一の仮説を立てることにする。
第一の仮説 素粒子の上には素人が生存する。 |
さて、「私」は更に縮小を続ける事ができる。
すると、もはや素人でさえその姿を認めることができず、「私」の足元には素人の肌の組織が大地のように見えてくるであろう。
こうして「私」が縮小を続けて行けば、やがて組織を構成する細胞が目の当たりになり、やがて細胞を形成している高分子の群れがあたかも銀河のように見え始め、その一部に太陽系のような原子が現れ、更にその中の一つである素粒子が地球のように拡大されて行くのを、「私」はつぶさに観察することが出来るのである。
そして「私」はまたしてもそこに、第二の素人の存在を確認するであろう。
「私」はこうして限りなく縮小を続ける事が出来る。その度に「私」の視野に現れてくる光景は、組織→細胞→素粒子 と変化して、第三の素人、に至る。
同じ周期を繰り返しながら素人は、際限なく縮小する「私」の目の前に立ち現れてくるのである。
結局、この極小に向かう世界は限りなくスケールの場を縮めながら、私たちの場を出発して、組織の場→細胞の場→素粒子織の場→ 素人の場→組織の場→・・・・・と言うように、螺旋を描きながら続けられる無限連鎖であると言うことが出来るのだ。
5図は、この無限に続く螺旋構造を示したものであるが、このとき、螺旋の流れの方向に下がって行く垂線がN軸と言うことになる。
つまり、この螺旋こそ、のしてんてん系なのである。
それにしても、私達が見て来た世界は、のしてんてん系宇宙のまだ半分でしかない。
私達はさらにもう半分の、のしてんてん系宇宙を見ておかなければならないだろう。その残りの半分とはすでに明らかなように、限りなく拡大して行く世界である。
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スケール号の冒険の舞台となった記述です。
スケールの概念というのは、自分のからだの大きさを変えることで見えてくる世界認識を支えてくれるものです。
たとえば時間の概念は、自分が過去に行ったり未来に行ったりしたと想像したときに見えてくる世界認識をつくりだしてくれます。それとまったく同じはたらきをしているのです。
時間にしても、スケールにしても、現実は今この時だけであって、未来や過去、極大や極小という世界は、全て想像の産物です。
私たちが世界を感じ、見ているのは、時間やスケールの概念を使って観る想像力なのです。
つまり何を言いたいのかといえば、スケールの概念は、時間の概念とまったく同じ属性を持った世界を認識するための概念だということです。
素粒子の上には素人が生存すという仮説は、よくまことしやかに語られるエイリアンがいるいないというような議論とは全く違います。
遭ったことも見たこともありません。純粋に理論上の仮説です。時間の概念でいう未来人と同じ感性から生まれたことばだと理解してください。
スケールの螺旋がイメージ出来たら、それがスケールの概念です。このイメージは、時間のイメージと十文字に交わります。
時間軸とスケール軸の交差する座標を思い描くことが出来るようになるのです。
これは人類の著しい進歩となります。
時間の上を直線に動くことしかできなかった人間が、横にも動けることに気付くということですしし、さらに言えば、
時間と空間のつくる平面の世界しか知らなかった人間が、上下にも動いて行けることを知るということです。
四次元から五次元に意識改革した人類は、計り知れない幸を手に入れることが出来る。
五次元にはそんな可能性が秘められていいるのです。
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