(9月の小品展のための作品 P0号)
「吾は空なり」
正月から半年をかけて皆様とともに五次元宇宙を旅してまいりました。(、カテゴリー5次元宇宙に生きる(空間) から初めて、5次元宇宙に生きる(心)、そして5次元宇宙に生きる(神) )
その行き着いた終着駅で発見したものが、この「吾は空なり」という達観でした。
この「空」とは、結果、「色即是空」や禅の「無」に通じるものなのかもしれませんが、私の着地した地点は、もう少し科学的なニュアンスの強い場所でした。
すべてを投げ出して神に帰依するという次元からすれば、もっと手前の、凡人が、特殊な勉強も、修行もせずに、普通に理解してつかむことのできる境地だと感じたのです。
つまり、私の言う「空」とは、精神的鍛錬によってしかつかみとれないような、覚者の「空」ではなく、ただの空間にすぎません。
そうです、手を握りしめれば、その手の周りにある空間、私とあなたの間にある空間、宇宙にある空間、そしてわたしをつくっている原子を浮かべている空間。
まさにこの目に見えない空間を指すのです。
現実にこの身を浸している空間であり、物質としての「私」を浮かべているこの空間です。
上の図は、五次元の概念から見た宇宙のモデルです。この図で、黒い点を原子だとすれば、こ原子が集まってできている人の姿が「私」の肉体ということになるわけです。
「私」とはこの黒い点の集まり、すなわちこの肉体は物質であるという認識が、私たちの常識であり、四次元(時間軸)の中で生きている人間には疑う余地もないことでした。
しかしこの認識は反転するのです。黒い点が「私」という認識が可能なのと同じだけ、白い地(空間)が「私」だという認識は可能なのです。
上の図は、まさにそのことを証明してくれる図です。空間に浮かんでいる物質を意識すれば、白い壺が見えますね。しかし空間が本体だと認識すれば、黒い空間に「私」を見ることが出来るのです。
つまり、私たちは労せず、生まれながらに持ち合わせている認識の力だけで、「吾は空なり」という認識が可能なのです。
知らないうちに私たちは四次元の概念を身につけていますが、それと同じように、私たちは五次元をごく普通に身に着ける能力を持っているのです。
しかし、この地点に立って、私は一人旅の必要性を感じました。皆様とともに進むには、あまりにも未知の領域に足を踏み入れることになると思ったのです。
ここから先は、高村光太郎の「道程」さながら、道はなく、手探りで失敗を繰り返すことで道を探すしかありません。
私のこの思いが、本当に正しいのかどうか、それをこの身を使って実証しなければなりません。
しかし正しい道を見つけるためには100%失敗が必要です。失敗を繰り返しながら、誤りを削り落とすほかに方法はない世界であり、一人で行くしかない道ということです。
幸い私にはのしてんてん絵画があります。
どんなに失敗しても、キャンバスに向かって心を癒す方法を身に着けておりますので、この一人旅の同伴者は絵画ということになるのです。
「吾は空なり」
その認識に成功すると、意識はそこから落ちることはありません。どんなに苦悩がやって来ても、意識はそこから下には落ちないのです。
これは私が実証した最初の真実と言えそうです。
その意識のもとで、私は自分の身を空間に捧げます。その空間が絵を描く。空間という私が絵を描くということは、結果すべてを神に任せる。明け渡して空間の力を解放する。ということになるのでしょうか。
そのような経験を、今自分の中で繰り返しているところです。
どんな道が見えてくるのか、いまだ籔の中ですが、元気に進んでいます。
ところでスケール号ですが、ようやく中盤に差し掛かりました。
次回から、冒険の再開です。ご期待ください。
確かに、地球の万物、わたしたち物質は、
原子で創られている、原子構造物で、
その原子構造に焦点を絞り、
原子を限りなくミクロに見極めましても、
限りなくマクロに見極めましても、
限りなく0に接近、限りなく空に接近、
この0、この空こそ、仏教での円相、螺旋宇宙でしょうね。
このように観ますと、地球も空、地球の万物も空、
わたしたちの住居も空、わたしたちが座っているところも空、
わたしたちは人型星雲のように観えることもあるかもしれませんが、
宇宙と一体!不生不滅の存在であるということを実感します。
一方、色(形)あるわたしたちの肉体、肉眼、
感覚から感じられるわたしたちは、
不生不滅体ではなく有限体なのですね。
つまり、わたしたちは、
有限体であると同時に無限体であると
わたしは感じています。
色即是空空即是色
有ると同時に無く無いと同時に有る
ですね。万物多種多様の個性も、
こちらから出現していると思いますが、
宇宙同根多種多様万物一心同体
潜在極域通底意識は宇宙意識
宇宙と万物一心同体の宇宙意識
のしてんてん様が、
開拓展開されて行かれます道を、
あとから進ませて戴けるわたしたちは、
幸せでものです ^ね^
いつも有り難うごさいます。
感謝申し上げます☆
「吾は空なり」という達観は、私たちに無限の真実を見せてくれます。
そして私たちのしあわせや喜びというものは、その中にある有限が見せてくれる命の営みから生まれる成長の実感なんだろうと思うのです。
無限の存在を受け入れたうえで、有限の幽玄をいかに楽しむか。
物質の世界に頭脳が生み出された本当の意味はそこにあるのではないかと思えます。
幽玄を見て、限りあるもののいとおしさを、無限のからだに刻み付ける。
そんなところまで、行ってみたいものです^ね^
無限の夢幻
有限を幽玄として楽しむ
でしょう ^か^
目いっぱい楽しんでいきたいです^ね^