犬島 精練所美術館(銅精練所跡)
6月に訪れた、犬島精練所美術館。その構内にある銅精練所の遺跡。なぜか心惹かれてカメラを向けた一枚でした。
なぜ写真に撮ったのか、その理由が今になって分かりました。
それは、つい数日前に、ばかばかしいほど時間と労力をかけて自転車のパンク修理をするはめになり、そのことがきっかけで偶然にも自我と向き合うことが出来た。その感動的な思いを表してくれているのがこの写真だったのです。
↓こんな話です、よかったらお付き合いください
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すでにお分かりのとおり、私が自我と対面して感じた風景とは、この自然の中にうずもれた廃墟の姿なのです。
まずは、解説なしで、この風景を眺めてみてください。風景の中に何か懐かしいような、時間のイメージが湧き上がってくると思います。ここには自我の出発点と終着点が同時に映っているのです。
自我の出発点とは何でしょうか。それは自分をつくることから始まります。
それは云うまでもなく、この煉瓦の壁ですね。
うっそうと繁った樹木の平原を自然の姿と考えてみてください。その自然の一部を壁で囲って領地をつくる。自然に対して、これが己の領分だと主張する。つまりこれが自分(私の分)なのですね。自然を自と他に分ける壁、これが自我に他ならないわけですね。
私はこれを、自分と他分というふうに自然をふたつに分けたのだと理解します。自分+他分=1なる自然。つまり自分=自我とは、自然を自分とそうでない部分に分けた一つの城壁という訳ですね。
人は誰でも、自分の壁の外に出ることは考えません。
「私は〇〇だ」と云う時、私は〇〇とそうでない境界線に壁を作っているのです。その壁を乗り越えるには、尋常でない強い精神力が必要になるのです。
なぜなら、たとえばどんなに努力しても〇〇になれないと思われる事態に直面したら、人はその壁を乗り越えようと考える前に、苦悩と自己嫌悪を併発して壁に頭を打ち付けるのです。写真の壁が黒いのはその時の血と涙の跡だと連想するのは私だけかもしれません^が^
いずれにしても、自我をこれほど生々しく映像で見せてくれるとは、撮影時点では全く気付いていませんでした。
そして自我の終着点というのは、
自我の死以外にはありませんが、死してなお、その壁を見詰めているものがいるとすれば、その目に映る自我とは、まさにこの写真のとおりなのかもしれません。
壁の中に取り込んだ自分という領地の内側からも、新たな自然の息吹が生まれ、やがてその自分の内外で樹木が育ち、一つの自然に帰る。やがて壁は意味のないものとなるのですね。
「人は必ず死ぬ」一休さんは辻々に立ってしゃれこうべをふりながら説法をしたといいます。自我を捨てよと。その時一休さんの目には、この風景が見えていたのかもしれません。
ところで、私が開眼したのはここからです。
もう一度ごらんください。少し視点が移動していますが、同じ遺跡です。この遺跡を自我だと思って、つまり誰か一般的な自我というのではなく、今ここを読んでいるあなた自身の自我だと思い定めてこの風景を眺めてほしいのです。壁に区切られた区画には、自分のなりたいことや、自分のあるべき姿が詰め込まれています。
この風景が自分=自我だとしましょう。すると今あなたは自我をこの遺跡に重ねあわせようとしていますね。間違いなくあなたは自分の自我に気付いていて、それを見ているのです。その気付きがなければ、あなたは決して、遺跡に自我を重ねようなんて考えも出てこないでしょう。自我に気付かないものは、無明の生物(ミミズやカエル)に等しいのです。
ありがたいことに私達は光明を得た生きものなのですね。
その気付きとは何でしょう。
私が自転車のパンク貼りをしていてまさに気付いたことはここでした。
気付きとは、今わたし(あなた)が遺跡の写真を見ているのと同じ質のものなのだと。
私が遺跡の写真に気付いているのは、この目で写真を見ているからですね。この目がなければ写真があるのさえ気付きませね。気付きは見る目がなければ成り立たないのです。
では、この遺跡が自我だとすると、その自我を見ているこの私(あなた)の目は何にあたるのでしょう。それは、自我を越えたところにある目。写真を自我とすれば、写真を見ている私(あなた)の目は神の位置にあたるのです。
写真を自我だとしたら、まさにそれを見ている私(あなた)の目があってはじめて写真の自我は己の存在を知ることになると思えるのですね。
そうすると、写真ではなく本物の自我に立ち帰ったとき、
この私が、自分自身に気付いているのは一体何なのか、ということが自然に見えてきますね。つまり私を見つめている神の目が存在するということです。
この神の目がなかったら、私たちはどんなに頑張っても、その頑張りを観ることは無い。その努力はただ無明の中に生きる命の運動に過ぎないのですね。
この神とはレベルこそ違え、写真を見ている私の目と同質のものなのです。
さらに言えば、その神というのは1なる自然の統合された力のほかに見つけることが出来ません。
つまり、私たちは自我を作り人間として一人前になりますが、けっして自我という自然を取り込んだ小さな領域だけで生きているのでもないし、その領域の力だけで独立した自己完結の存在ではないのです。
己を知るためには、己を外から眺める目が必要であり、そしてそれは生まれた時から、気付きとして私たちの身近にあった。その力は自我を越えた、1なる自然の全体に及んでいる力であり、自我とはその力に包まれてはじめて自我たりうるという証しなのです。
分かりやすく言えば、私たちは自分のことに気付いている。内側も外側も、見ることの可能な限り、自分がここにいることを知っている。
たとえ人知れずつまみ食いをしても、その事実を自分だけは知っている。
この気付きの力こそ、神と言えるものなのです。
言い換えれば、それは自我を越えた、1なる自然の力(宇宙意識)の現れに他ならないのです。
私たち自我は、自然から隔離された孤独を強いられているとつい思ってしまうのは、実はとんでもない思い違いであるといわなければなりません。
事実、私たちは最も身近に、自分の存在に気付いている宇宙意識そのものに触れているのです。これは空想でもなんでもない、まさに今感じているこの自分という、超リアルな感覚こそ宇宙意識そのものの体感であったのですね。
五次元宇宙(のしてんてん系宇宙論)では、ヒトは宇宙空間の中に一つの閉じた自我空間をつくると考え、この自我の内側で働くエネルギーを自己意識と名付けました。
それに対して、自我を取り巻く世界を1なる宇宙と呼び、そこに満たされているエネルギーを宇宙意識と呼びました。
問題は、この自己意識の生まれている自我は、完全に閉じているのではなく、どこかで宇宙意識とつながっているというのが私の考えでした。
上の図はそんな宇宙とヒトの関係を表したものです。小さな円に囲まれた部分が、写真の遺跡の煉瓦にあたる部分で、ヒトは宇宙意識から泡のように膨らんでその内側に自己意識を生みだしているのです。
自己意識はしかし完全に閉じているのではなく、ある一点で宇宙意識とつながっている。この自己意識と宇宙意識の接点を私達はどんなふうに感じとっているのか。それを知りたいと思っておりました。必ずその実感が自分の意識のどこかにある筈。そう思い続けてきたのですが、ふとその実感とは「気付き」だったのだと思い至ったわけです。
ついでに言えばこの図は、自己意識から生まれた表層の肌感覚、そして知性の働きによる認識が、自分を越えて宇宙に理解をひろげて行くという人間の姿を描いています。
繰り返しですが、この図は20数年前に描いた宇宙とヒトのイメージ図です。しかしそれは肝心なところで実証性のないあいまいさを持っていました。
自己意識と宇宙意識の接点をどう体感しているのか、自分の中に必ずあるはずの実感を見つけたい。しかしそのための確証を得る方法が分からなかったのです。
ところが今、はっきり云うことが出来ます。
この接点に生まれている実感こそ、私たちが日々日常的に体験している自我に対する気付きだったのです。
(つづく)
雑談に来ました☺。
あっついですねえ、相変わらず。
ご自愛を。
さてさて。
わかりません、のむっちゃん、再び(笑)。
桂蓮さまとのコメントのやり取り(無駄なことしてる等の自己嫌悪や焦りは自分の自我が作り出した苦悩、やることだけを見つめて淡々と進めていけば達成の喜びしかない……そこに気付いて嬉しかった、龍を描く以上の修行だった、気付いている自分の目は神の目、というお話かと解釈していました)は、ふんふんと素直?に入ってきましたけど。
同じ内容、なのでしょうか?
それとも、私の解釈がとっ散らかっているのでしょうか?
以前にコメントで示唆していただいた内容(美しい景色の例えです)と、リンクしている内容ですよね?
このお話、続きがあるようですし、そちらを待つべきでしょうね🍀。
では、また。
責任者出てこい!!!
って、人生幸郎師匠が懐かしい。
体調崩していませんか?
お尋ねの件ですけれど、自転車のパンク修理体験(桂蓮さんへのコメント)が発端になった記事です。
(美しい風景の例え)でどう書いたのか細かなところは忘れていますが、もちろんリンクしています。
私がここで言おうとしていることは、人とは何かという問いかけの答えを求めてのことですので、すべてリンクしていると考えていただいてかまいません。
ただ重要なことは、常に進んでいるということです。今この瞬間の理解は、次の瞬間の理解へと進まなければ真実には行き着かないということを覚えておいてください。
真実は、止まったら終わりです。
自分の中で生き始めるまで、その時々で得た真実は死んでいく。
真実が自分の中で生き始めるまで、得た真実にしがみついてはならないということです。
(美しい風景の例え)は、今を生み出す糧となるものであり、すでにあなたの真実とはかけ離れているかもしれません^よ^
むっちゃん
信ずべきは、今生きているあなたの心と身体、それ以外にはありません。
そこを分かって頂きたいのです。
①説明調
②起承転結調
③観察者視点
④例題補足
具体的過ぎると、受け手は受け身になってしまいます。
あまり、全てを完璧に料理しないほうが適当でいいかもです。
自我像は人によって異なり
私の自我は形態面で相違するのはありますが、
読んでいくと
のしてんてん様が
『気づいた』あの瞬間が
どのような感覚であったのか、分かるような気がします。
前回、そのパンク件にまつわるコメントを読んでから、しばらくの間
目の前にその光景が映ってきましたね。
リンクしていると考えていいのですね🍀。
だからって、やっぱりわかりゃしませんけど(ダメじゃん)。
まあ、半分冗談で言っています💦。
(半分本気……)
『時よ止まれ。お前は美しい』
満足したら負け、という賭けを悪魔メフィストフェレスとしたファウスト博士。
最後にこう言ってしまい、魂を取られることに。
どんでん返しでファウストは救われ、天国へ迎えられるのがゲーテ版の『ファウスト』で、私はそれしか知りませんけど、悪魔に魂を取られてオシマイ、という話もあるそうな。
マスターのお話、それを思い出しました🍀。
満足したら賭けに負け、悪魔に魂を取られちゃう。
悟りの境地で満足し切っちゃったヒトより、悟りに向かおうと歩き続けるヒトの方が広い意味で美しく、魅力的。
そんな気がふと致しました。
確かに、言葉過多説明症は私の場合重症かもしれません^ね^
気持的には、私は伝道者ではなく求道者ということなのかもしれません。
自分の体験を、出来るだけ正確に伝えたいという思いが先に立つようです。(さっそく説明言訳してんじゃないよ)
よきアドバイスを
しっかり心に留めておきます^ね^
私の世界観(ヒトと宇宙観)は、お渡しした「のしてんてん系宇宙論」のとおりなのですが、この、先に生まれた論理を体験的に実証しようとしています。
そして今回の体験と気付きは、のしてんてん系宇宙論の最後の大きな未確認部分に対して私なりの確証を得たということなのです。
桂蓮さんのつかまれたイメージは
きっと禅の瞑想につながる部分にあったのではないかと想像いたします。
各々感じる形はどうあれ、自我を越えるためには、自我の中心に踏みとどまるという禅の態度と、私の今回の体験はほとんどイコールで結ばれると思っております。
私の得た体験は「のしてんてん系宇宙論」の完成であり、桂蓮さんの向かわれる禅の世界につながるという実感を持てるようになった気がしております。
つながりを感じて頂いて、うれしく思います。
桂蓮さんの最新記事は、私の感じている社会不安と重なります。
その最悪はナチスでした。(もちろんトランプ政権にそんな凶悪があるとは思えませんが、そこまで想いがつながるという意味です)
その根幹に自我がるのですよね。
他民族の排外思想は私の記事から言えば、自我の城壁を小さな己のまわりに天高く張り巡らせる。その城壁の中からフェイクで煽り立てる。自分の目先の生活を守るために排外思想を受け入れる・・・)
私達はこの自我と向き合わなければならないのですね。
禅も、のしてんてん系宇宙論も、人々に城壁をつくらなくても生きていけると気付かせてくれる要素を持っていますね。
私達の出生地は宇宙だということに気付いた者は、フェイクを見破り、そんなやからに対して憐憫の情さえ持ちます。
些細なことではあるかもしれませんが、真実への気付きを大切にしていきたいと願っています。
ファウストですか、私は正直読んだことありませんが、おちは有名ですよね。
悟りというのは、私が思うに、真実に気付くことだと思うのですね。
そして満足というのは、多くの場合、自我が満たされること。
私など、結婚の満足はすぐ次の不満をうみだすのを知っています。自我は必ず次なる城壁をつくるからです。
つまりむっちゃん、悟りの境地というのは、自我を満足させることではないのですね。
それは自我そのものを手ばなし、外から眺める場所に行き着くことと言えばいいかもしれません。
ですから
「悟りに向かおうと歩き続けるヒトの方が広い意味で美しく、魅力的。」
というのがいいと思います^ね^
私の絵もそうですし、むっちゃんの文も、つくりあげた自我の壁を壊して心を自然に触れさせたら、もっと自由なものが生み出せるということなのかもしれません^よ^
塾をやってた時、学んだことのひとつ
子供達が一番嫌がるのが説明です。
のしてんてん様の解説の仕方だと
生徒たち、居眠りか携帯いじるか
落書きするか、ですね。
のしてんてん様の解説調は
鉛筆画調かな~
細部まで気が配られていて
完璧すぎる。
全てを表現したいとの志は純潔ですが、
出されたものが完璧すぎると
それを丸呑みするか、
解体するか
判断が難しくなりますよね。
要は出されたものが完璧すぎると
もらう人が不完全になるということです。
自分を不完全にして、相手を完全にさせるか
自分が完全になって、相手を不完全にさせるか
その選択が
芸術だと、私は思います。
マスターの次の記事を待とうと思っていましたけど、桂蓮さまのコメントについ、
わはは🎵
マスターの、フマジメで頭のよろしくナイ生徒の一人(え、私だけ?他の生徒はみんなわかってる?)として、もにょもにょしていた気分を見事に表現して下さり、思わず嬉しく(コレッ)なってしまいました😁。
去年の夏ごろの『龍の飾り結び』のお話にツッコミを入れた時のことも思い出しました。
わかりません、と、私の内なる悪がき・幼児・獣の子……があばれる時。
それは、マスターが熱を込めて説明している時、なのかもしれません。
まあ、だからってマスターはマスターのスタイルをつらぬくでしょうし、それで良いのだとも思います☺。
暑さにめげず、頑張って下さい。
ツッコミは入れるでしょうが、応援しております🍀。
手術不可能、医者からも見捨てられてしまったようです。
後は死を待つしかありませんね。
桂蓮さん、今の私の気分は、それが出来るかも知れないという想いがあります。
気付きという感覚が、実は自分の外の宇宙と直接つながった意識だという思いが、少しづつ強まって来る感じがあって、自我がうすれていくように思えるのです。
本当にそんなことが出来るのか分かりませんし、明日は挫折するかもしれませんが、とにかく進んでみようと思っておりま^す^
少なくともそこは、自分がまだ立ったことのない世界であるような気がするのです。
私にやってきた論理が完璧だとは微塵も思いませんし、理論に完璧などありえないのですけれど、しかし表現として
桂蓮さんの進言はとても貴重なもので、私には大切な教えです。自分なりに真剣に考えてみたいと思います。ありがとうございました。
桂蓮さんには、自我についてどんな思いをお持ちです^か^
わはは!のむっちゃん。
やっぱ、場が一段と明るくなります^ね^
分からん!!が一番。
それは裏を返せば、しっかり自分を持っている証拠ですからね。
ほのぼのと、ただ私は嬉しくなります。
まちがっても、桂蓮さんのご指摘のように、丸呑みはいけません。
むっちゃんにそれがないということがうれしいので^す^
大体の傾向ですが、つい力が入る時は、自分の想いに新しい展開が生まれたときのようです。年甲斐もなく興奮しているのでしょうね。
のしてんてん系宇宙論を書き上げて、その論理の中でどうしても実体験できなかったことが一つだけあった。
長いあいだ探し続けましたよ。
それが見えて舞い上がっている私を、まあ想像してみてください。
恥ずかしいオッサン踊りをしています^よ^
ツッコミ、お願いしますよホントに。
それでなくても、ボケがひどくなってきておりますので、私。
繰り返しですが、
分からんでいいのです。
分からんが頭の片隅にあったら
ある日、腑に落ちる時が来る。
今回私は
分からんを20年以上持ち続けたのですから^ね^