7月7日七夕の日から、連載してまいりました、スケール号の冒険第4話は、38回で終了となりました。
長いあいだご愛読いただきましてありがとうございました。深く御礼申し上げます。
スケール号の冒険は、のしてんてん系宇宙(五次元)の解説として、書いたものです。全4話からなり、3話、4話を公開いたしました。
(1話、2話は、物語の舞台を設定するための作品で、特に五次元を正面からとらえたものではありませんので、割愛しております。)
今回ひと月あまりの連載でしたが、旧作(10年ほど前)をそのまま転用するつもりで気軽に始めたのですが、私の思考が変化しており、随分書き換えを要することになりました。
PCの前で、一日―時間は費やすことになってしまい、とにかくスケール号を地球に帰還させることが出来てホットしております。
私の思索の大きな変化は、「吾は空なり」という意識の到達でした。
これは、スケール号連載のあいだに起こった覚醒でした。
童話(作り話)という意識で書き進めましたが、私の意識はいつの間にかスケール号の一員となって、己の苦悩を見つめていたのだと、今あらためて気づきました。
この心の領域は、五次元という新たな概念がもたらすもので、新たな世界認識の基礎となるだろうと、今は確信しております。
スケール号の冒険、エピローグは、そのために新たに書きくわえた部分として、お読みくだされば幸いです。
物語でもお気付きのように、五次元は四次元から飛躍的に認識世界を広げてくれます。そしてこの度、より強く思いましたのは、五次元は、空間に対する意識を、根底から変えてくれる効用があるということです。
五次元は元より宗教ではありません。
時間軸と同じ座標にあるスケール軸という純粋な世界認識の概念(道具)なのです。
スケール号の冒険は、このスケール軸を、タイムマシンならぬスケール号で旅し、スケール軸から見た世界を可視的に描いたものです。
そしてそこから見えてきたのは、実のところそこは、宗教の提案する世界に等しいのではないかという思いでした。
私は宗教に詳しくはありませんが、己を生きるという、ただそれだけの思いから行き着いた五次元が、どうやら釈迦の生きた世界と相似ではないかと思えるのです。
もしかすると釈迦は、今ある宗教を想定していたのではないのではないか。不遜にもそんなことを想ったりします。
釈迦はただ真実を見出した人であった。
私が期待するのは、釈迦の見出した真実を、五次元は、科学的な目で万人に提供できる可能性があるのではないかということです。
スケールの概念を使えば、物理学でよく聞く4つの力などは簡単に説明がつくのではと思いますし、観測問題にしても、スケール軸の概念は有用ではないかと思うのです。
五次元の概念を用いた、新たな空間の研究が始まりますことを心から願っております。
その向う地点には、心(宗教)と哲学、そして科学の融合もありうるのではないかと期待します。
こころの問題では、認識の基礎が大きく変わります。
己という認識主体は、自由に変動します。時間概念だけの世界は認識主体は不動で孤独ですが、そこにスケールの概念が加わりますと、当然のごとく人の身になって考えることが自然となるのです。
そして何より、「吾は空なり」という、認識の反転が可能となります。
「吾は空なり」という認識は、孤独感にさいなまれ、あすなろを背負わされた苦悩から、心を解放され深い癒しを体験します。
そればかりか、「吾は空なり」という達観には死は存在しないのです。始まりも、終わりもない空間こそ自分の正体だと見抜く意識は、宇宙の唯一無二である存在を己として生まれ変わることでもあるのです。ただ意識を物から空に反転させるだけで得られる達観です。
五次元の人間は、時間で社会を動かし、スケールの中で心を癒す。必要以上の欲はばからしくなり、欲から来る苦悩は消え、よろこびの中で己を生かす生き方が出来るようになる。そんな希望もあります。
スケール号の冒険、および五次元の概念について、ご意見ご感想、寄せて頂ければしあわせです。
今後も、五次元の概念を発信し続けますので、よろしくお願いいたします。
出来ますれば、五次元研究の徒として、これからも共に新世界の旅に同行いただければ幸いです。
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