(通りすがりのお寺に立っていた阿弥陀様だろうか、よくわからないけど、心に留まったお姿)
話はまたもとに戻ります。
心とは何かということですが、三度広辞苑からの引用です。
「心」は知識・感情・意思の総体だということですが、今まで意思と感情についてみてきましたので、最後、「知識」についてみていきたいと思います。
例によって広辞苑にお世話になりましょう。それによりますと、以下の通りです。
- ある事項についてしっていること。また、その内容。
- 知られている内容。認識によって得られた成果。厳密な意味では、原理的・統一的に組織づけられ、客観的妥当性を要求し得る判断の体系。
難しいですね。「知っておること、その内容」というのは、ま、そのまんまですが、二段目がよくわかりません。なんのこっちゃですね。
たぶん学術的な体系を意識した説明なのでしょう。ならば、私たちには無縁と考えていいでしょう。すると、「認識によって得られた成果」というのがいいですね。厳密な意味はいりません。
ということで、知識というのは、認識から始まると考えていいわけですね。
一昔前にガングロという言葉がはやりました。
若い世代の間でよく使われとぃるのを耳にしましたが、私には何のことやら、長いあいだわかりませんでした。
ところがある日、テレビで「ガングロ」を見たのです。若い女の子のグループが、皆、焦げ付いたような顔をして、しかも目の周りがパンダのように白い。何だこりゃと思ったところに、今若い女性の間で流行っているファッションだと解説が入り、そこで初めて「ガングロ」を認識したのでした。
つまりこういうことです。私は以前から「ガングロ」という言葉は知っていましたが、私には無意味なものでした。それが、しっかり認識したのちには、友人に「最近のガングロファッションはどうのこうの」と、知識をひけらかすほどに成長したというわけなのです。
知識とは、認識の集大成ということになるのでしょう。
認識の仕組みはすでに取り上げましたね。よかったらもう一度読んでみてください。
要は、認識とは、人間の最も根源である意識から生み出されるという構造を、下図を使いながら説明したものでした。
始めに宇宙意識があって、その意識の一部を取り込んで自己意識をつくる。これが人間が生まれるという意味でしたね。
この自己意識は原子を引きつけて身体をつくっており、宇宙意識から独立するように、閉じた空間をつくりました。
そして、生命活動によって起こる身体的快・不快を照らし出す。これが認識の始まりでした。
光は外側を照らして、私たちは物の存在を認識します。同じように、意識は体内を照らします。そのことで、私たちは、体内に起こっている身体感覚や快・不快を認識するのです。
そのあたりの記憶を戻していただいて、次回からもう少し詳しく知識についてみていきたいと思います。
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