のしてんてんハッピーアート

複雑な心模様も
静かに安らいで眺めてみれば
シンプルなエネルギーの流れだと分かる

五次元と振り子(1)

2018-04-30 | 5次元宇宙に生きる(心)

心は振り子である。

己の人体実験(心の探求を私はそう呼んでいます)で、私は一つの境地に達したように思います。今回はその境地とは何かについてレポートいたします。

といって、たいしたことではないかもしれません。肩の力を抜いて、しばらくお付き合いください。

新境地と言えば聞こえがいいですが、要はこういうことです。

これまで、当ブログでは、私の中から生まれてきた五次元という考え方を何度も紹介してきました。そのことをここで繰り返すのは時間の無駄ですので、初めての方は五次元関連の過去記事をごらんください。

その五次元の概念が正しいのかどうか、はたしてそれを論理的に説明できるのか。

そしてその論理が、単に論理としてではなく、実際の心の幸せにつながるのか。

この二つを命題にして五次元の旅を続けてまいりましたが、最近、己の中の苦悩をみつめるうちに、ふと振り子のイメージに出遭ったのです。

そしてその発見(出遭い)が私に衝撃的な風景を与えてくれました。

宇宙とともにあることの事実と、至福感。しかしその至福感が安定せずに揺れ動く事実。一瞬の至福は感じられても、それが永遠に続かないのはなぜか。

永遠であるはずの至福が、得たと思った次の瞬間には苦悩に入れ替わるのは、単に修行が足りないからなのか・・・

つまりそれは生活に五次元がかかわっていない証拠なのかも知れない。私の考えは間違っているかもしれない。そう言う思いを完全に払しょくできないでいる私に、振り子のイメージが一つの答えを与えてくれたのです。

それは苦悩の続く人生に、五次元はもともとから深くかかわっていたのだという新たな気付きでした。

心は勝手気ままに動いているように見えますが、実際には宇宙の力を常に受け続けているのです。心は宇宙の力と不可分の一であることが見えました。

私がここでいう宇宙の力というのは、五次元の概念で認識できる無限の存在、想像し得る最大の宇宙のことです。

それは今あるこの存在を「1」の大きさと考えた場合、この「1」なる存在を包んでいる極大の世界と、「1」なる存在の内部に拡がる無限の極小世界が不可分の一体として認識できる宇宙なのです。

「1」なる存在は、これを取り巻いているさらに大きな極大の世界の一部であり、さらにその内部には無限に分割されていく極小宇宙をはらんでいる。これが五次元宇宙の姿なのですが、この五次元の存在はスケールの概念でしか見る(想像する)ことが出来ないのです。

スケールの概念は、極大の宇宙と極小の素粒子世界がただ一つの身体として存在しているという姿を、具体的なイメージとして私たちに見せてくれました。

この、超巨大な宇宙を不可分の一身とした存在、その存在が私たちの心に作用を及ぼしている。そのことを振り子が教えてくれたのです。

新たな境地というのは、この考えが論理的な理解につながったという意味なのです。

 

さっそくその理解を図にしてお伝えしたいと思います。

その図がこれです。

五次元の概念は、スケールの考え方から生まれました。そのために、スケールの概念を単独に考えて心を描いてしまうことが多く、これまでうまく時間の概念とつなげることが出来なかったのですが、この図(振り子)によって、五次元とは、時間とスケールの織りなす世界であり、そこに心が生まれていると思えるようになったのです。

 (文字が小さく見づらい場合、左図をクリックして拡大図をごらんください。)

この図から、様々なことを読み取ることが出来ます。

図は、黒で描いた座標を下敷きにして描いたものです。

横軸に時間軸をあてはめ、過去から未来に向かうベクトルを表します。その原点(中心)には今この瞬間である現在があります。

そして縦軸にスケール軸をおきます。原点から上に向かって極大の視界が広がり、逆に下に向かっては極小の世界を示すベクトルを表しています。言うまでもなく原点では時間軸と交わり、今この瞬間の、この身体の生きている世界が示されています。

心の振り子は赤で表していますが、原点を支点にして分銅が揺れていると想像してください。

この運動こそ、時間のベクトルとスケールのベクトルが作用した動きであることが分かりますね。

青い線で表したベクトルが示してくれているように、分銅(心の位置)は常に時間とスケールの影響を受けている訳です。それが振り子の運動となります。

振り子はけっして止まることがありません。地球の自転を証明したフーコーの振り子は有名すが、振り子は複数の力(ベクトル)があるかぎり揺れ続けるのですね。

心もまた同じで、その動きは、時間とスケールの影響を受け続けているのです。

 

この時、身体はどこにあるのかと言えば、それはスケール軸に相当します。

身体は常に、今この瞬間の中にあって、極大、極小の世界と不可分の一体として存在しています。身体は自然そのものであり、心はそれにかかわることが出来ないのですね。

その代りに、心は赤い振り子のように、時間軸の間を揺れ動くのです。

心と身体の関係はこれを見ても分かるのではないでしょうか。

心は身体のように実体がないために、時間の概念を作りだして世界を測る必要があったのでしょう。行動規範として能動態・受動態が生まれ、苦悩もまたそこから生まれたと思われます。

たとえば心が過去に向かって振れたとき、必ずそれを引き戻してくれる力がありました。それは我々人間が生まれた時から備わっていたのです。図で分かるように、その力こそスケールの概念で見ることのできる宇宙の力だったのです。

図では重力のように、垂直に働いている力のことです。

それはスケールの軸=身体という存在の力ということが出来ます。

この力が常に働いていて、心がどんな位置にあっても、必ず身体に引き戻そうとしていたのですね。

それが心の振り子運動となっている。そう理解できるようになったのです。

心は時間のベクトルとスケールのベクトルによって動く振り子だったのですね。

 

至福はスケールのベクトルの指し示す方向にありました。そこには自然のままの身体があり、まさに深い身体の寛ぎと安らぎがその至福の正体であることは言うまでもありません。

けれど私は、これまで至福のイメージを、静止したものとしてとらえていたのです。つまり、図で言えば心が過去にも未来にも振れない、完全にスケールの軸の上にとまった心の状態を考えていたわけですね。

確かにその状態こそ身体そのものになり切った、つまり宇宙と完全に同化した姿かもしれませんが、しかしそれは生きている限りあり得なかったのです。

そうです。

至福を得た次の瞬間にはもう消えてしまう至福感というのは、実は生きている証しだったのです。

地球が生きている(動いている)証しとしてフーコーの振り子があるように、私たち人間には、まさに生きる証しとして心があり、それは絶え間なくふたつの力の間で揺れ続けている訳なのですね。

湯船に浸かって至福を味わう。心が身体の自然にとどまっているこの間にも、この身体は生きています。呼吸し、体内の様々な部位で「快・不快」を生み出しているのです。それはまさに振り子そのものです。

このように命というものは、身体という自然の中にある振り子運動であり、つまりそれは心の振り子の原型と言えるのです。

決して止まらない心の振り子。

ではどこに、苦悩から救われる道があるのでしょうか。

実のところ、五次元は私たちにそのヒントを与えてくれるのです。

しかしその話はまた後日といたしましょう。

 

 

 

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20 コメント

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トラ様 (のしてんてん)
2018-05-05 00:02:11
自己満足という言葉には様々な階層があります。

トラさんの言われる自己満足とは何を想定されているのか、それが分からなければ答えることは出来ません^ね^

独りよがりの自己満足なのか、おそらく釈迦が見たであろう悟りの中の自己満足なのか、あるいはもっと違った意味の自己満足なのか。

「五次元というスケールを使って、心のモデルを表そうとするのは自己満足の為なのですか?」

この問いだけでは分からないのです。ごめんなさい。

返信する
Unknown (トラ)
2018-05-04 22:47:42
五次元というスケールを使って、心のモデルを表そうとするのは自己満足の為なのですか?
返信する
トラ様 (のしてんてん)
2018-05-04 22:12:41
せいぜいであれ、自己を満足させることが出来ればそれで十分だと私は思っています。

自己が満足すれば、50億の自己は満足する。そうは思いませんか?

人を満足させようと思うのは、私には欺瞞に思えます。

それより、地球も銀河も回転している。それを成り立たせている唯一の条件はなんだか分かりますか。

たった一つの空間があるということですよね。この空間の中に、「私」も「私」を創っている原子や素粒子も浮かんで、回転しているのです。

物質に目を向けると、無数の1が存在し独自の回転を勝手気ままに続けているように見えますが、それを可能にしているのがまさに「1」なる空間なのです。

トラさんの言う1=1は空間にあるのです。吾は空なりです^ね^
返信する
Unknown (トラ)
2018-05-04 16:03:52
1=1 とは自己の同一性を保証するものです。
「安心・不安」「快・不快」「苦・楽」といったこれらの心的現象は、1=1 である自己にとってたまらなく魅力的であり、計測に値しうるものです。
スケールを使ってその変化を計測することにより何らかの意味が見出せる可能性がある気がしてならないものです。
しかし、こと宇宙空間においては、測定者が地球とともに回転しており、さらに地球は太陽の周りを回転しており、太陽は銀河系の中心を回っていることを思えば、物差しを持った測定者ができることは、せいぜい自己を満足させることぐらいしかできそうにないわけです。
何故なら、宇宙空間では静止を原理として確定できないからです。
返信する
トラ様 (のしてんてん)
2018-05-04 11:49:39
言葉の後ろにある本意をつかむのは難しい。
というより、私は言葉の持っている特性上不可能だと思っています。

けれど、限りなく近づくために対話があるわけですね。それが少し実感出来まし^た^

「ああいう人もいれば、こういう人もいる、
あんな人もいれば、こんな人もいる、
いろんな人をひと塊りにして「人間」として
抽象化する認識作用を持つ存在の事。

これで間違えはないでしょうか?」

というトラさんの質問に今回のような想定が含まれているとは想像もできませんでした。

それより、
「抽象化する認識作用を持つ存在」の存在という言葉に意識が行ったのです。

認識という作用を問題にしているのに、それが存在するかどうかを問われればどちらとも言えないと言ったのが本旨です。

ところで、「1」なる存在は学術用語ではありませんし、五次元は既存の学術を踏襲しているのでもありません。

まさに心の随伴現象を五次元で理解しようとしているものなのです。

科学と宗教の狭間にある心を見たいと思っております




返信する
Unknown (トラ)
2018-05-03 10:54:09
自己が「1」なる存在として思えない人、即ち、
自己が「2」であったり「3」であったりする人は一般的に言って、離人症、もしくは、乖離性同一障害として、精神に何らか異常があると言って差し支えないと思います。
私が、「間違いないでしょうか?」と尋ねたことに対して相違がなければ何の問題もないのですが「そうとも言えるし、そうでないとも言える」となると、これは考えざるを得ないわけです。

スケールは比率であり、物差しとして理解しているのですが、それが通用するのは、あくまでも測定者が変動しない、静止しているという条件に限ってのことです。
離人症や乖離性同一障害ではないにせよ、自己が安心や不安の間を行ったり来たりしたとしても、「1」なる状態は、スケールという概念を使用する以上、維持すべきだと思うのです。
振り子で表現できる安心や不安などは、単なる心の随伴現象でしかないわけですから、あえて五次元に取り込む必要があるとは思えません。

それでも「快・不快」「安心・不安」といった心を伴った人間らしさに拘りたいのであれば、
反応拡散系を参考にしてみてはいかがでしょうか
返信する
トラ様 (のしてんてん)
2018-05-02 08:35:41
五次元の考え方で、もっとも大きな特徴は、認識主体の変動を認めるということです。

四次元の考え方には、認識主体(自我)のスケールは変動しませんね、己が「1」の大きさのまま全世界を認識しようとする態度です。(自分の大きさが変わらないというのはある意味常識ですよね)

ところが五次元(スケール)で世界を見ると、自分の大きさというものが実にあいまいなものだと分かってきます。目を瞑ると私たちはとたんに大きさを失います。
目を閉じた闇の大きさを誰も測ることは出来ないのです。

私が思うに、人ばかりでなく、ものごとすべて抽象化出来ないのが真実でしょう。

しかし逆に人間の思考は100%抽象化されたものです。唯一の真実は、思考は抽象であるということでしょうね。

{振り子のように「1」であったり「2」であったりする}というトラさんのおっしゃる意味は分かりましたが、「1」であったり「2」であったりするのは、スケールの概念で世界を見る当然の結果です。

そしてそれは抽象化の最たるものですね。

ところでトラさん、思考を破棄できると思いますか?
返信する
Unknown (トラ)
2018-05-02 00:08:26
抽象化ができない人の事です。
返信する
トラ様 (のしてんてん)
2018-05-01 23:16:07
私には分からない点があります。
トラさんの言う

振り子のように「1」であったり「2」であったりする

という表現は、何を指しているのでしょうか?

よければ教えてくださいませんか。
返信する
Unknown (トラ)
2018-05-01 19:40:41
人間でありながら、これ以上分割不可能な個人としての私が「1」であるというならば、
「1」である私は、人間として個であり、地球の部分であり、太陽系の一部であり、銀河系の要素であり、宇宙の構成要素であるという事は、理解不可能なことではないと思います。
部分として、即ち「1」として、その部分を包括する全体、即ち「数」というものを思い浮かべる事は間違いではないし、べつに無理な話ではないでしょう。
「数」として「1」なる存在は個別性でありながら全体性に含まれるものです。
比率や物差しとして「スケール」という概念は相性として悪くはないと思います。

しかし、私は「1」ではない、というのであればスケールを概念として使用する事は適切でないと思います。
振り子のように「1」であったり「2」であったりするのであれば、スケールは破棄すべきだと思うのです。
返信する
トラ様 (のしてんてん)
2018-05-01 13:23:19
間違いないかと問われると、答えは難しいですね。

そうとも言えますし、そうでないとも言えます。

たとえば、100兆個いると言われている腸内細菌のことを考えてみてください。

一個の細菌から見れば、個々の細菌はみな「1」なる存在ですね。良いものもあれば悪いものもいる。互いに競争し合う関係もあるでしょう。

しかしこの私から見れば、私という「1」なる存在の一部。あるいは共同体ということになりますよね。

もし仮に細菌が瞑想して私という身体をイメージしたとしたら、自分(細菌)が生きている環境は、自分も参加して出来ている命の姿であって、その総合された力が作りだしているのだ!という気付きを得ることでしょう。

大きな宇宙に対して、私たちは腸内細菌という連想も出来るわけです。

あくまで想像の問題です。

{いろんな人をひと塊りにして「人間」として抽象化する認識作用を持つ存在}

が実際に存在すると言っているのではなく、「私たち」がそういう認識を持って世界をイメージすることが出来ると言っているので^す^。ね
返信する
Unknown (トラ)
2018-05-01 10:50:45
ああいう人もいれば、こういう人もいる、
あんな人もいれば、こんな人もいる、
いろんな人をひと塊りにして「人間」として
抽象化する認識作用を持つ存在の事。

これで間違えはないでしょうか?
返信する
まかこ様 (のしてんてん)
2018-05-01 10:05:20
おはようございま^す^

まかこさんのコメントに心がふるえます。

共振しているのでしょう^ね^

ありがたいことです。本当にそう思います。

「苦悩を突き抜けて歓喜に至れ!」

これ以上に、人間らしい人間の言葉はないのではないでしょうか。

理屈はいらない。苦悩は苦悩。人はそこを突き抜けるしかないんですよね。

理解する道はあっても、逃げる道はない。そう言うことなんですね。

今日もよき一日を過ごしましょう。
新緑の五月。
我が家では、落花生の新芽を植えつけました。
返信する
トラ様 (のしてんてん)
2018-05-01 09:33:40
「1」なる存在というのは、それ以外に言い表す言葉がないために使っているのですが、

一つの現れとして認識できるもののことです。

当然認識ですから、認識主体によって違いますし、認識方法によっても変わります。

一例を上げますと、細胞はそれを見ようとしているものにとって「1」なる存在ですが、私にとってみればこの「私」は「1」なる存在です。

しかし宇宙を視野に入れれば、地球は「1」なる存在であり、観察者がさらに大きな視野をもてば銀河は「1」なる存在ですね。

我々が想像しうる最大の世界を思い浮かべれば、この大宇宙もまた「1」なる存在なのです。

「1」なる存在とは、つまり認識主体にとって一つのまとまりに見えるもののことです。

そして私の観ようとしているのは、この「1」なる存在が何を教えてくれるのかということなのです。

裏返して言えば、私たちが一つとして認識できるかたまりのことを「1」なる存在というのです。(学術用語ではなく、私が勝手に使っていることばと考えてください)
返信する
メビウスループ活動 (真鹿子(まかこ))
2018-05-01 09:31:37
のしてんてん様
おはようございます!

「五次元と振り子」は、
私の感じていることと、
似ているように思います。
私の場合は「振り子」ではありませんが、

のしてんてんさんがおっしゃいますように、私たちは常に宇宙と一体宇宙体!
宇宙の力を常に受け続けています。

そして私たちも、
宇宙一体宇宙体の宇宙エネルギー!

この無限宇宙∞の無限活動∞
絶え間なく∞流動している
メビウス帯宇宙エネルギーと一体となり、
この陰陽対称の
2つの円相連結体∞ともなっている
メビウスループを巡り続けている私たち

闇がなければ光もなく光がなければ闇もなく苦悩から歓喜、歓喜から苦悩へと、
メビウスループを巡り続けている私たち

禍福は糾える縄の如しと云いますけれど
万物それぞれが宇宙細胞の一因子である
私たちも新陳代謝の生死を繰り返し、
この無限宇宙エネルギーのメビウスループ∞をめぐっていますが、

私たちを構成している素粒子の一粒一粒も超対称性の素粒子∞が予想されてい
て、素粒子も限りなくミクロ無限宇宙エネルギーメビウスループ活動をしているのでしょうね。

また私たちも左右対称、
私などは左脳も右脳も∞
無限宇宙エネルギー∞メビウスループ活動を行っていると感じていますけれど、

この無限宇宙エネルギーは、
物質概念を超えているミクロからマクロに至るまでこの∞メビウスループ∞活動を行っているのでしょうか、

私にはこのようなことは、
言語化が難しいのですが、

ベートーベンは、
「苦悩を突き抜けて歓喜に至れ!」と、
発破をかけてくださっています!
やはり今!この瞬間が大切なのでしょうね。

最近「時間は未来から過去に流れている」
と云う説が沸き上がってきましたが、

私は時間は過去から未来にも流れ、
未来から過去にも流れていると思っています。

この今は、
過去から観れば未来
未来から観れば過去

つまり今は今であると同時に未来であると同時に過去の一瞬無限大!

この一瞬無限大の起爆が大切、
この一瞬無限大の起爆が
「苦悩を突き抜けて歓喜に至れ!」の道に
繋がっていると確信しているベートーベン信者なのですが、

長いコメントになりまして、
申し訳ございません。
次のお話も楽しみにしておりま^す^
いつものしてんてん天力を
ありがとうございます☆
今日もどうぞ良い時を
お過ごしくださいませ♪

感謝一念
まかこ 拝
返信する
むっちゃん様 (のしてんてん)
2018-05-01 09:12:02
おや、しっくりです^か^

でもご注意くださいヨ

もしそのしっくりが、頭の中のしっくりだっらた、それはだまされ屋ののれんをくぐっているかも知れませんからね。

私は自分を検体にした人体実験で、正しいと思っておりますが、それはこの身体に起こる体験を見ているだけなのです。

だから、この話は、思考ではなく自分の身体に問いかける形で体験してみてください。

あなたの身体と心にしっくりいきますように願っておりま^す^
返信する
sure_kusa様 (のしてんてん)
2018-05-01 08:59:10
おはようございます

身体の自然というものは、本当に不思議ですね。突き詰めて考えれば、きっと誰にも分からないものなのだと思いますね。

我々人間など無知そのもの、私などまさにその無知の代表みたいなもので、ジョークで笑いとばしてある意味それが正解のようにも思えま^す^。

ただ一つ言えることは、自分の身体にある自然だけが己に与えられたささやかな知を得る窓口。

その意味でもからだは大切貴重なものなんでしょうね。

湯船で目覚めるのが最高です^ね^

(つかりすぎにご注意)





返信する
Unknown (トラ)
2018-04-30 22:23:30
「1」なる存在とは、一体どの様な意味でなのでしょうか?
返信する
雑談に来ました (むっちゃん)
2018-04-30 18:58:25
どーも、マスター。雑談にきました☺️。

最近でこそ、いっぱしの顔で雇われママなど仰せつかっておりますけど、私は元々『わかりません』のむっちゃん(笑)。
神だの宇宙だの真理だのを突き詰めてゆくと、最終的に何だかイーッとなって

むつかしい理屈はいらん、私は生き物として気分よく生きたいし、時期が来たら気分よく死にたいだけなんだい❗
それが知りたいだけなんだい❗

と、逆ギレ気味に思うのです(笑)。

マスターの五次元も、基本的にはすごく気分のいい感じ方・考え方としてシンパシーを持っているものの、何かがしっくりこなかったのですが。

今回のお話、なんだかしっくりきそうな気がします☺。

続きがとても楽しみです。
返信する
Unknown (sure_kusa)
2018-04-30 12:03:59
5次元に浮遊していた心が、あるとき神に1身体を与えられて合体。
4次元の身体が朽ちると同時に、心は離脱し浮遊し、心は神の次なる思召しを待つ。

こんな風に考えると、与えられた身体の貴重さに目覚めなければ、本当に勿体ない事ですね。
5次元の、続きのお話・・今から楽しみです ♪
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