いつになったら私にこんな絵が描けるのだろうか。片岡球子の絵を前にして私はため息を漏らした。
私はこのような大胆な表現をいつも夢見ながら、それを実現しようとする前に崩れてしまう脆弱さを持っている。片岡球子の絵には私には越えることのできない精神の峻厳さを感じるのだ。その迫力を私はただ羨ましいと思うばかりだった。
私は富士から眼を放すことができず長い間立ち尽くしていた。本物の絵に出合うと、反発するよりものめり込み、取り込まれてしまう私は、そこに自分の絵描きとしての弱さを認めないわけにはいかない。そんな自分を甘いと思うのだ。
里依子も長い間この絵を眺めていた。彼女はこの絵が好きですと言った。そして何度もこの絵を見に来るのだとも言った。
そう言いながら絵を見やる里依子の姿には真剣な意思が伝わってくる。あるいはその引締められた容姿が、片岡球子の絵の厳しさと呼応して溶け込み、そこから清澄な空間を呼び起こすように思え、そんな里依子に私は尊敬のまなざしを向けるのだった。
里依子は自分ではよく分からないと言いながら、本当のところでは絵をよく理解する人なのではないかと思うのだった。
HPのしてんてん
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