今、公園は・・・路地裏探検、
今回はこんな風景にびっくり。思わずカメラを向けてしまった。
習慣になっている朝の散歩をリフレッシュしたい。
そう思っていたら、半径2キロの圏内で一度も足を踏み入れていない場所を探検するというアイデアが浮かんで来た。
しかし意気込みだけで動くと疲れてくる。疲れてくるということはどこかで無理をしているということだ。
何処に無理があるのか、自らの空体を眺めて問いかけたら己の意気込みそのものがこだわりなんだと思えてきた。
ならば、無理をせず(気が乗らなかったら休むというぐうたらOK)と心に決めたら、楽しみが倍増した。
心といういうものは、自分でありながら案外自分でも思わぬところに飛んでいく意外性がある。
ぐうたらは、その意外性を楽しむのにもってこいだと最近思っている。
そのぐうたらで今回は、さっそく自分の決め事をも無視して、未知の世界ならぬなじみの公園に行ってみた。
なじみと言っても、もう何十年も前の事、子育て真っ最中の時代によく子供を連れて遊びに行った近所の公園である。
サッカーのまねごとをしたり、キャッチボールやバトミントンと、一通りの遊びを家族で楽しんだ場所だ。
その子供らが成人して独立した。そんな時ふと意識が過去に向いて、何気なく子供のことを思い出したら、ちょっと公園に行ってみたくなったのだ。
そして目にしたのが意外な上の写真風景だった。
当時の遊戯施設はそのままだったが、それが草にうずもれている。見た目では分からないが、確かにこれはかつて子供を乗せてこいだブランコに違いない。
見回したら公園は何処もかしこも草でうずもれている。
これは土盛りをした小山の頂上から滑り降りる、横幅2メートルほどの広いコンクリート滑り台だ。
当時は頂上まで土の斜面に直径20センチ大の丸木を杭のように打ち込んで階段にしていた。子供たちはその杭を頼りに山を登り、滑り降りてくる。
大きな子供は、丸太の上をピョンピョン飛び移りながら登って行く。三歳の我が子は丸太を足がかりにして周りを這い上がっていた。草のために今もその丸太があるのか無いのかさえ分からない。
幅広の滑り台は手すりが無い。身体を支えるものがなく、こわごわ行くと転がり落ちてしまう。はじめて滑り降りる小さな子供たちには想像以上に勇気がいる様子だった。頂上から見るスキーのゲレンデのようだったかも知れない。
いつまでたっても滑れないので、待ちくたびれて、子供を抱えて滑ったのが最初の経験だった。
その公園がこのありさまとは?!
何があったのだ。公園一帯はほぼ草の海。夏の間もこの状態だったのだろう。そうでなかったら、ここまでひどくはならないはず。
一体、子供たちは何処に行ったのだ。
そう思い初めて、ようやく自分の考えが新コロナウイルスと結びついた。
こんなところにもコロナ禍の風景があったということだ。
この一年、子供たちはこの公園をコロナに奪われていた。その証拠だと思うと、泥沼のコロナ禍が憎らしくなった。
とはいえ、公園管理は市の仕事、担当者はどう言い訳するだろう。何か理由があるはずだ。
公園があれば子供たちはたむろする。
親の目が届きにくいところで、子供たち同志がきちっとマスクをして遊ぶというのはちょっと出来過ぎだ。
しかし公園を立ち入り禁止にしたら、立札管理も大変だし、市民の目も気になる。
ちょうどいいところに草が生えてきた。
密を避けるためにこの草は役立つ。この草では集まって遊べないだろう。
なるほど、そういうことかも知れない。
草刈の予算が節約できるうえに、当り障りなく公園の使用禁止状態が出来上がる。一挙両得ではないか・・・と市の担当者は考えたのかも知れない。
しかも一挙両得でもない。
一つのことをなすことで二つのいいことがあるというのではないのだ。
この場合、何もなさないで、二つの益を得ているのだから
まさに無為自然ということになるのだろう。
草刈しろと市民から苦情が来たら、コロナで予算が無いといえばいい。
老子の教えを地で行っている。わが市にも策士がいるのだなぁと思った。
無為自然・・・自然とは自ずから然り。何も手を加える必要はない。
空体も然り・・・一人で納得して帰って来た3日後のことだった。
遠目に涼しげな公園の姿が目に入ったので行ってみたら、草はすっかり刈り取られていた。
秋の空に、昔のままの公園。やっぱりこちらの方がよかった。
盛り土の滑り台も姿を現した。この角度からは滑り台は見えないが、頂上から裏側に滑り降りる。奥に見えるのがブランコ。
写真を見て気付いたのだが、丸太の杭だけでなく、そう言えば階段も付いていた。
記憶はいい加減なものだ。
これにしても、この草のように、コロナウイルスを刈り取ることが出来たら世界はスッキリ晴れ渡るだろうに。と心に念じてみる。
だんだんひどくなるコロナ禍、今や第三波。
くれぐれもご用心。マスクに手洗いうがい、心がけましょう。
面白そうな遊具には初めて連れて来た孫も飛びつきます。
楽しい時間ですなぁ。
あの遊具は、こぅやってあーやって遊ぶ・・そう想像の中に子供だった頃の自分を思い浮かべます。
大人も子供なんやなぁ、そう思います。
公園って” 時 ”を操れるような気がしますね。
お腹が空いたらアイスを求めて家に帰ればいい。
アルコールが切れそうになったら家にある濃い目の焼酎のお湯割りめがけて走ればいい。
自分の過去を思い、自分を公園中遊び走り回らせればいい(想像の中で)
そんな風に感じまし^た^
これは何という崇高なお言葉でしょうか。
私なども、ぎったんばっこ(シーソーのことでおます)を見ると時を忘れて坐りたくなります。そーすると、手に持っているワンカップ〇○も子供のころの桃のネクター缶に見えてきます。
ところが当時は、誰ぞが向かいに座っておりまして、ぎったん ばっことやっておりましたのに、今はぎったんで止まったままで、ばっこと跳ねてくれません。
ほんに公園は時を操っておりますなぁ
ワンカップがネクターに見えても、時は返してくれません。おつむの黒髪も公園の草も同じでおますなぁ
sure_kusa様、共に公園で遊んでいただきありがとうございました。
ゆるゆるの歯をかみしめて、ぎったんばっこ、やりまヒョ^カ^
公園以外の大人の目につかない場所が遊び場でした。
あなた様はなかなかの遊び人でございます^ね^
私の好きなタイプでございます^よ^
今の子供たちの公園はスマホの中かもしれませんが、私なども当時、公園(と言っても氏神様の広場)が落合場所。
そこから親に見つからぬ秘密基地建設。そこで秘められた遊びをしたものでした。スリルと緊張感のだいご味。
公園は子供にとって当たり障りのない、親に見せる遊びをしておりましたなぁ。
話が合うのではございません^か^
遊びの終わりは決まって逃走劇・・・
逃走しなければ遊びは続きますし、逃走すれば新たな遊びが始まる。
私のことでもあります^が^