二人で
先日、突然届いた友の訃報に驚き、連絡を取ってご自宅で線香を仏前に供えさせていただいた。
生前よく聞かされた二人の子供はもう成人間近の若者となていて、初対面でありながら何の違和感もなく受け入れてもらえた気がする。二人とも亡き友の心根を仲良く分け合いながら引き継いでいた。私にはそれが何よりうれしかった。
彼と登った山、確か写真があったとアルバムを引っ張り出してみたが、彼が写っているものはほとんどなかった。もっぱら写真係だったのだと今になって気付くうかつさが私の心を甘酸っぱくさせた。かろうじて数枚彼の姿を見つけたとき、私は完全に時空を超えていた。
奥様とは二人の結婚前から、しばしば二人の間に私がいて、三人デートという奇妙な関係が続いたことがある。
好んでお邪魔虫を演じたわけではなかったが、一人ではうまく話せないからという友の懇願に付き合った日が懐かしい。
そんな話も飛び出して、笑いながらビールを頂いた。
生き延びる。帰りの電車の中でふとそんな言葉がよぎった。生き延びていくというのはこうして、一人ぼっちになっていくということではないのか。そんなことは考えたこともなかったが、現実がいつも新しい思考を生み出している。その現場を押さえたような奇妙な興奮を覚えた。
思考は自分が作り出しているのではない。それは生まれ、そしてそれに気付く自分がある。
私の友への思いも、友ありて生まれたものなのだ。
私はただ、それを大事に見つめながら、友と絵を登る決心をした。
「これでいいか?」
「やぶーぅ、この石ころまだ描きたらんの」
終生変わらなかった愛媛弁のイントネーションが響く。
不思議なものだ。
一人ぼっちになっていくと思ったその言葉の延長線にこんな風景があった。
今まで私は、自分の絵の山を二人で登ったことはなかった。
身を捨てて彼が私の心にやってきてくれた。たまに喧嘩もしながら、にぎやかな登山をしてくれるようだ。
この作品、新年までには完成させたい。
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