ゴッホのひまわり
花の種を何気なく見ていたらそんな商品が目に留まった。
ゴッホのひまわりと言えば、有名な絵が何枚も目に浮かぶ。日本の美術館で開催されたゴッホ展でも本物を見たことがある。絵を始めた頃、傾倒して何枚か模写したこともある。
タイトルを見ただけで、値札も見ずレジに持っていった。
いくらだったか忘れた。
さっそく蒔いてみたら、つぼみが出来、花が咲いた。
花を見て、はじめてゴッホのひまわりという種袋のタイトルに納得した。
ゴッホである。(7月8日撮影)
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無動作に投げ込まれたひまわりの絵には、確かに花芯が黒いものと強いオレンジ色の二種類が描かれていた。
この二輪をみてそう思った。ゴッホを身近に感じられて嬉しかった。
ゴッホは、ひまわりを人生に見立てていたのかも知れない。
ゴッホはひまわりを何枚も描いた。そして枯れた花も同じ目線で描いているのである。
それを見てみようと思った。
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花芯がこんもりと持ち上がり、種が成長しているのが分かる。(7月20日頃)
調べてみると、花芯のまわりの黄色い花びらが「頭状花」太陽の光芒である。太陽の本体と思われる花芯の無数のつぼみのようなものも一つひとつが「筒状花」という花だと分かった。要するにひまわりは、二種類の花が無数に集まって咲いている集合花だったのだ。
筒状花の根元に一つの種が出来る。こんもりと盛り上がった花芯は、無数の筒状化でその下にある種が大きく育ってきたためだということがわかった。
ゴッホの絵には、この頭状花が萎れ、お椀のようになったひまわりの種がいくつも描かれている。
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頭状花がほとんど枯れ落ち、みなお辞儀をしている。枝分かれした小輪の花が新しく花を咲かせているものもある。(7月末)
ゴッホの絵の中で、こんな姿の花が一番心に響いてきた。
そう想って見ると、なんだか自分がゴッホになって、ゴッホの目を通してひまわりを触っているような気分になる。
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花芯の種、数えたらゆうに1000個は超えるらしい。種が育つのとは逆に、葉や茎は枯れてしまった。(8月8日撮影)
茎の導管は種のために今も水を吸い上げているのだろうか。
終末の枯れたその中心に、無数の新しい命が宿っている。
ゴッホの描きたかったものはこれなのかも知れない。
同時に、枯れは己の身の寂しさを被せたメッセージだったのかも知れない。
あなたがどう思ってたくさんのひまわりの絵を残されたのか、今となっては分かりませんが、
間違いなく後世の人間は、あなたの絵を観て、老いに中に無数の希望と命の輪を意識させられていますよ。
夏の太陽のような共感と感動をお伝えします。
ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ 様
パリで1週間過ごしたことがありました。
その友人とルーブルに行って
ゴッホのヒマワリを肉眼で見ました。
驚いたのは
色が印刷ものより強烈でなかったこと、でしたね。
あれ?こんな柔らかい黄色だったのか?と。
強制的な色はひとつも無かったです。
だが、生きている感じでしたね。
ヒマワリの黄色
優しかったです。
静かな説得力、みたいな感じでした。
あの時私は説得力も感じませんでした。
うまく言えませんが、自分が体の隅々までゴッホそのものになったように感じたのです。
自分の目ではなく、このひまわりを見ているこの目は、ゴッホそのものなんだというような、実感でした。
その想いは、ゴッホの最後の作品と言われるカラスのいる麦畑の絵を観た時にも感じました。
表現というのは、時によったら説得を通こえるんですかね。
それから私はゴッホに学ぶようになったのです^よ^
それにしてもルーブルで見るゴッホはまた格別だったでしょうね。
そうかなと思われるところありましたね。
ルーブルで感じたのは
ゴッホとゴギャンは交わらない、喧嘩別れする運命だったということです。
根本的な違いがあり
生き方、捉え方、感じ方が異国籍みたいな感じでした。
私はゴギャンが何となく嫌いでしたが、
実物を見て、さらに嫌いになりました。
油こいというか、脂肪付きというか、
太った女性みたいな感じでしたね。
モネは人を欺く傾向があるように勝手に思いました。
ずるいところに手を抜いているみたいな、
ゴッホには死んでもできないようなことを
図々しくやってのけてましたね。
言われてみてなんとなく同感して実感して、そして心からの笑いです。
爽やかでありながら、芸術というもののどこか儚いものを見事に言い当たような感じですね。
ずるいところに手を抜いている。
図々しくやってのけた。
今まで誰も書いていない論評のようで、感服いたしました。
ゴッホはジャガイモのように不器用な人だったのかもしれませんね。
まさにそんな感じありますね。
そういえばそんな感じ受けましたね。
まあ、言われてみれば
私がのしてんてんさまに絵を依頼したのは
ゼッタイに手を抜かない人だと確信したからでした。
自分世界にうぬぼれて
芸術の解釈だなどずるい言い訳など
ゼッタイにいわない、
死んでもしない人柄と感じたからです。
で、まあ、当てたみたいな感じでしたね。
そういえば、のしてんてんさんはゴッホに似ているところありますね。
適当に誤魔化すことは
絶対にしないこと、
それが一番にているかな。
背筋にヒヤッとする快感を覚えました。
生蓮様のブログにかかれていたことを引いて言えば、私のど真ん中を射抜かれたような感じでした。
でもあまりに核心を突かれると、そこに居れなくなるのが意識の厄介なところです。
意識すると余計なところに力が入りますからね。
不満を言っているのではありません。桂蓮様の言葉で、さらに掘り進む契機を与えられた。喜ばしいことです。
桂蓮様の体感追求とどこかで交わるところがあると信じて、桂蓮様の言葉のその先に進むことにいたしましょう。
ありがとうございました。
訂正とお詫び申し上げます