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思考地図の最下層には身体的思考があります。
身体の感覚を思考と呼べるのか、そういう反論に対しては答えようはありませんし、答えるつもりもありません。身体感覚は思考ではないと信じるのもまた、間違いではないのですから。
ただ私は、思考をもっとも人間的な行為だと考えます。ならばそれは、私たち人間存在の一部を切り取ることで理解できるものではないと思うのです。
ともあれ、身体思考は、私たち人間の誕生を担う思考であり、成長して理念思考をつくりだすその根幹を担っている思考なのです。頭脳でいえば最初の脳、脳幹の思考と言えばいいでしょうか。
思考とはエネルギーの波動だととらえれば、思考は、まさに生み出された身体の、その前からすでに始まっていると考えるのもまた、自然なわけですね。
身体的思考の特徴は、意識にのぼらない思考の領域ということです。思考として意識されることはありませんが、確かに実在すると思われる思考と考えていいかもしれません。
この身体的思考という大きなくくりの中に、習慣的思考、身体思考、原感覚思考という区分を設けましが、これはその無意識の意味合いの違いによります。
この中で習慣的思考は理念思考が無意識化した思考です。最初はしっかりと理念によって行動していた事柄も、おなじことを繰り返して習慣化すると、無意識に行動をおこすことがありますよね。日常生活の中で、この習慣的思考は大きな比重を占めていると思われます。頭脳は、一度習得した知識は何度も顧みないですね。興味はすでに新しいものに向かって進んでいきます。先へ進むために行う思考の節約のようなものでしょう。それがある時ふと、思考が働いていることに気付くことがありますね。何かのきっかけで、意識が、働いている思考を照らし出すのです。
さらにその深い闇の中に、身体思考が動いています。これは身体そのものの生命活動が生み出す思考です。宇宙の中に生命として生まれた身体。この身体にはすでに生きようとする思考が存在するのです。
生命は、呼吸に象徴されるように、(吸収⇒生成⇒排出)を繰り返して行く存在ですが、そこにもっとも原始的な身体的「快・不快」が現れます。それは無意識の中で身体が体験する思考であり、まさにこの呼吸のリズムが、その思考を象徴していると思うのです。
自己意識は、宇宙にできた孤島のような存在です。そんなイメージで考えるなら、生命という孤島の海岸に打ち寄せる波もまた、私たちには重要な風景となるでしょう。宇宙意識と自己意識の境界に打ち寄せる波。それはやがて私たちの感覚となってゆくエネルギーに他なりません。原感覚思考と名付けた所以です。
海に向かうと、波のリズムにまみれている自分に気付くときがあります。観測した訳ではありませんが、そのリズムの中にいると、地球上のどこで聴いても同じリズムではないのかと思ってしまいます。私たちは間違いなく、大きな摂理の中で生きているのです。
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