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思考地図
今回は地図の上段、「覚醒」の区分に入る思考を観ていきます。
覚醒という言葉を使ったのは、真実に目覚めるという意味を込めたかったからです。
理念思考は、言葉による思考でした。この思考の代表的なものは学術の世界ですね。人は幼年から言葉を覚え始め、はぐくみと教えによって、言葉を習得します。「何}という問いかけが芽生えますと、そこから人は爆発的に知識を広げていきます。
言葉は世代を超えて受け継がれ、知識は時代とともに拡大していくのです。これが理念思考が文明を発達させてきた大きな特徴ですね。ちなみにその他の思考はすべて個人の中で生まれ育ちはしますが、伝承できないということですから、理念思考がいかに人間社会に貢献してきたか計り知れません。
しかし、理念思考による研究にはおのずと言葉の限界があります。真実を知ろうとして進める研究は、時として、真実のほうからやってこなければ、得られないことがあるように思います。言葉を操って真実に至ろうと努力しているさなか、たとえば風呂に入っていて突然その答えがひらめいたというような話をよく聞きますね。
これは、答えを必死で考えていると、ふと緊張が緩んだ瞬間に思考が真実に触れるのではないかと思われます。何の根拠もなく直接真実の方から思考がやってくる。直観がひらめくということです。
理念思考の限界で、なお知りたいという強い思いが、直観を呼び込む。科学はこうして既存の知識から未知の知識を開拓してきたのかもしれません。
このひらめきとは、瞬間に起こる真実の覚醒ではないかと私は思うのです。
瞬間の覚醒が起こるのであれば、宇宙意識そのものへの覚醒も起こりうるという考えは自然にやってきます。つまりそれは、空間を知るということに繋がります。
人(心)は空なり。そう釈迦が理解し、解脱したというのが正しいのなら、その時の釈迦の思考は、まさにこの宇宙意識(空間)への覚醒だったのではないでしょうか。
人間の思考が、自己意識という限られた空間のエネルギーから、宇宙意識にまで広げられるとしたら、そこに現れる思考方法は、五次元しかないのです。
そのような思考があるとすれば、それはもはや完全に論理を超越して、真実そのものとなる思考となるでしょう。没論理思考という区分さえ意味のない宇宙への覚醒なのかもしれません。
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