意識に最も近い感覚。
「観る」は深くそして広い。
百聞は一見にしかず。古い言葉もあるように、見たことはそのまま意識につながる。
そして観る対象は様々だ。
ものを見る。
光のもとで色と形を見極める
見ただけで、瞬時に世界を把握する素晴らしい能力だ。
心を観る。
心に描かれる心象風景、悲しいことうれしいこと、様々な感情の色を観る
音を観る。
宇宙の振動を観る。明るい音、暗い音、息苦しい音、
聴きながら同時に観ている意識がある。
香りを観る。味覚を観る
香りは過去を掘り起こす。
味覚はいのちと直結する。
その感覚を観ている意識がある。
いのちを観る。
性欲、食欲、それにまつわる己の姿を観ている意識がある。
煩悩を観る。
物欲や名誉欲にまつわる煩悩の一切を観ている。
要するに(見る・観る)は己の一切を意識することだ。
観るを研ぎ澄ませる。
それはだから、己のありのままの姿をどう見極めるかという問題だ。
まず見る訓練が必要だ。
いかに深く見るか。それが意識を砥ぐ研磨剤になる。
木の葉に無限の緑色を見る。毎朝見る街路樹。その新鮮さを見抜くことが出来るか。日々の光景を、これが最後と言う思いで見ることが出来るか。
生きている色を見つけたら、必ず人は感動する。
その感動が研磨剤の目印となるだろう。
この世に、気付かれずひっそりと咲く美しさがどれほどあることだろう。
見ないで通り過ぎる、かすのような人生を、私は送ってきたのだ。
毎日感動して生きる人は、鋭い意識の持ち主と言っていい。
そして観ること。
音を観る。味を観る。・・・いのちを観る。
すべて、己を観るということに通じる。
己を360度から観ることだ。
観るを意識すると、
普段いかに己を観ていなかったかが実感できる。
私はその観ていなかった己に踏みこんでいった。
すると、驚いたことに、吾ながら毎日が新発見だった。
常に新しい自分に出会う。
それがやがて、吾は空なりの達観に行き着く。
注意深く自分を観る。
するといたるところに意識が満たされていることがわかる。
観るとはとても大事なことだと思わされる。
見ると、観るの違いは光にある。
光にあたるものは見る。
そしてそうでないものは観る。
瞑想している最中に目を開けてみると分かることだが。
目に光を入れた途端に、内観は消える。
あたかも、昼間の空だ。光で星が消されるように、観るは見るに座を明け渡す。
大事なことは、世の中を見ている間にも、観るべき真実は存在しているということだ。
見るを楽しみ、観るを極めること、
それが意識を砥ぐ最大のポイントとなる。
観る。
するとそこに空がある。
吾は空なり
私の今の実感だ。
いい記事ですね♪
詩人や画家、音楽家、芸術家、、、、
ア―ティストの目ですね♪
研ぐ、いい言葉ですね。
ご自分で意識探求への
実験台となられましたこと、
まことに有り難うございます☆
やはり、音を聴くとうことと、音を観るということは、
直結、意識とも連動していますね。
つまり、音を聴くと同時に音を観ると同時に
連動している意識が活動しています。
逆に、意識が何らかの活動をすることによって、
直観や閃きのように、観える音、聴こえる音もあるのでしょい^ね^
確かに、瞬間瞬間の体験は、
常に一期一会であり、最初で最期の体験であり、
極めて貴重な発見もあると実感しております。
己を360度から観ること
己から視界360度の世界を観ること
観音力を強化して行くこと
今この瞬間も常に、
万物、わたしたちをつらぬき超高速度で行進(更新)している
おおよそ一秒一兆個の素粒子群ですが、
わたしは、わたしたちを構成している素粒子群と、
もうすでに交信交流していると感じています。
それはもう、万物、地球生命体が誕生した当初より
交流しているでしょう。
わたしたちはまだまだ、
宇宙の素粒子群と、人体を構成している素粒子群との交信交流を
自覚するに至っていませんが、
宇宙潜在通底意識の極域では、
活発な交信交流が成されていると推測しています。
興味津々でアン^す^♪
今宵もどうぞごゆっくり和やかな夜をお過ごしくださいませ☆
わたしはもうすでに眠くなっているのですけれど、
ブログ上ライブがんばりたいとおもっています。
でもやはり、眠ってしまうかもでアン^す^;;
これからもどうぞよろしく、お願い申し上げます。
南無観音力!
南無観音力!
願わくば我らを
宇宙の一員として迎え入れ給え
そして
心地よい安心の睡眠を賜わりますよう。
お祈り申し上げます。