意識。
それは私にとって、存在の根拠だ。
絵画のよりどころでもある。
例えばこの絵を仕上げるとき、作品の味わいを観る。
その味わいにこころを満たされなければ、作品はいつまでたっても仕上がらない。
これは外にはけっして現れない、わたしの完全なる個人の体験なのだ。
この味わいは、味覚とつながっている。
まずい、うまい。
その結果を出す前に、様々な味覚の刺激が味孔の微絨毛に伝わり、頭脳がその判断を下す。そこに自然に生まれたバランス感覚がある。絵の判断と同じだ。
微絨毛の一本一本に意識がある。
意識を砥ぐ行為は、理論的にはそこまで見抜かなければならない。
どこまで微細な意識をくみ上げられるのかは分からないが、この私の肉体はそこまで可能性を秘めているということだ。
それゆえ、
食事をいかに楽しみ、いかに味わい尽くすか。は、大きな意識の鍛錬になる。
味わいの余韻を楽しむ。
味覚のハーモニーを意識する。
ゆっくり咀嚼し、意識が味覚そのものになったような体験を味わう。
味覚の空間を観る。
その空間は私の絵の空間と同じなのだ。
おそらく詩人なら、ことばと言葉の行間にある色合いと重ねるだろう。
すべての味わいは、この味覚の体験によっている。
そしてそれはゆったりと満たされた食事によってもたらされる。
嗅覚は記憶を呼び起こす。
頭脳のシステムに近いのかもしれない。
それだけに、嗅覚は意識から遠ざかりやすい。
意識を眠らせてはならない。
深く大きな呼吸を繰り返し、匂いを観る
意識が嗅覚の動きをとらえる。
お香を味わう。
緑の香を意識する。
懐かしい香りに出来る限り思い出を広げる。
そして野獣になる。
安全にまどろんでいる嗅覚を叩き起こせ
命がけで嗅覚に頼る経験を積む。ガス漏れの場所を探し出すように。これは意識を砥ぐ大きな力となるだろう。
そして核心だが、無味無臭を観ることだ。
無味無臭に、味覚・嗅覚が働いていないのではない。
無味無臭を意識する味覚・嗅覚を観ることが出来るか。
意識は、感じるものがあるから動き出すのではない。
それは常に存在し、動いている。宇宙の一部なのだ。
つまり、無味無臭を感じている味覚・嗅覚を意識し観ることが出来れば、私はこの身体から直接宇宙を味わうことが出来る。その可能性があるということだ。
その時、「吾は空なり」という我が実体と遭遇する。
理想だが、進む価値のある領域であり、そこは、吾と宇宙の最前線だろう。
おそらくそこで、私の意識は宇宙に溶け込む。
無味無臭に対する、味覚・嗅覚を知るためには、
味覚・嗅覚のかすかな変化に意識を向けることだ。
たとえば梵鐘の音の消え去るその一瞬を観極めるように、
一口のピザ。
そのチーズの味覚にビックバンのような無数の味が飛び出す。
刺激臭、辛味、うま味、甘味、酸味、
私の舌の上で、混ざり合い、うすれていく。
どこまでその味覚を追っていけるのか。
大量の味が消えていくと、酸味が目立つ。その背景にうま味が余韻をひいている。
唾液に融けだす味覚
気付いたら、唾液そのものの感覚。
そこに無味無臭の意識が観える。
食を楽しむとは
己を味わい尽くすことにつながる。
そこに達観がやってくる
吾は空なり
純粋に生きることへの喜び、その意識こそ吾なり。
花超えの菊
花びらがそれぞれ手になっていて、
それこそ、花びら手超絶技巧で
宮沢賢治先生のおっしゃる
光でできたパイプオルガンを
一心不乱宇宙神と一体となり
奏でていらっしゃるご様子☆♪
スケールも極大から極微まで自在
千手の花びら手で、光力を発揮
宇宙神の手となり
様々な活動をなさっているのでしょうね☆♪
まさに☆宇宙神千手観音菊☆で^す^
記事も朗読させていただいておりますが、
やはり、朗読ですね
朗読波動全身全霊に光響伝播!
全身全霊の糧となり、
未知なる神気力の覚醒力ともなっております。
のしてんてんさんの5次元宇宙を生きる(一人旅通信)は、
宇宙意識探求への貴重な入門書ですね☆
大変有り難く感謝^感^謝^です♪
大輪の菊。
好きな花です。真鹿子さんの持たれる印象は、私の持っているものと近くて、いつも驚かされます。それだけうれしいです。
朗読いただけるとは、もったいない。
腑に落ちないところは、ぶったまツッコミでお願いします^ね^。
宇宙意識探求への貴重な入門書になればいいのですが、
もっか、自分の達観に間違いはないか一人旅をしながら検証中です。
一緒に走ってくださいとは言えませんが、見守って頂ければ嬉しいです。
真鹿子さんの心の世界を、応援しております。
兵器が花火に!
そんな熱い思いに、合流いたします^よ^。
難しいけれど不可能じゃない。
いのちの可能性は、そんなところにもきっと届きます。
そう思って、頑張ります。