何のために絵を描くのか
そう考えたとき
私は、感性の喜ぶ空間を創るという答えに行き着きます。
今回の私の体験は、
そんな道筋の中で動いたことでした。
つまり感性に向かうということが私の創作の常なのですが、
それが極度に、思考が感性の側に入り込んでしまったのではないかと思います。
作品は駄作で終わりましたが、
それは大した打撃ではありませんし、むしろ次の道を教えてくれる教材となりました。
何のために絵を描くのか
その答えは
なぜこの絵は駄作なのかという理解の中にあったのです。
何枚も絵を描いておりますと、中には感性が喜ぶ絵に出逢うことがあります。
そんな絵は、
いつまで眺めていても、心が絵の空間に入って自由にのびのび動いてくれます。そののびやかさ、あるいはドラマが深く宇宙のかなたまで続いて行くのです。見ているだけで心が落ち着き、静かに至福の世界に連れて行ってくれるのです。
ところが、頭脳(思考)で描いた絵は、その思考がまず己をごまかそうとするのです。「これは良い絵だ」と思い込んだら、気付かないままに、思考が絵を修正してよく見せるようになるのです。
駄作を前にしても、感性に違和感があっても、良い絵だと必死で思い込もうとします。そしてそれが自分では気づかない。
私はまだその程度の作家なのですね。
今回の駄作騒動は、私が自分で尺度と考えている作品が、会場で展示中だったことにあります。
つまり、作品を仕上げた今、私は自分の作品が良い仕上がりだと思っている。しかしその思いが、感性によるものか、思考によるものか判然としないのです。
もちろん駄作は、時間をおけばメッキがはがれてきますが、創作意欲が冷めやらないこの瞬間には、分からない。
本物の作品と並べてみる必要がどうしてもあったわけですね。
感性と思考は、私の創作に関する限り、非常に見分けにくいものなのです。
それは思考が自分を主張しようと、巧妙に働きかけて来るからです。
今回私がうれしかったのは、
思考が興奮して、作品を良しと眺めている、いわゆる至福の時間に、ふと違和感を感じたことです。
普段はその違和感を、思考がおさえつけて、とにかく満足しようとして、絵の良いところだけを見ようとするのですが、
今回はその違和感に対して、思考が反応したのです。
一瞬でも感性との違和感が出て、ダメと感じたものは駄作というフレーズがわずかですが思考の中にできたのではないかと思えます。
その思考が、
自分をよく見ようとする思考に波紋を立てたのです。
しかしどちらが正しいのか、判断が付きません。自分の思考ながら、それが思考なのか感性なのか分からないのが情けないのですが、疑問が生まれただけでも成長です。
で、
作品を持って行って、私の本物の絵の横に置いた訳です。
判断は一瞬です。
「やっぱり」
違和感が正しかったのです。
今まで経験的に分かっておりましたが、自ら意識して理解につなげた初めての経験になりました。
駄作に一喜一憂しているわけではなく、むしろ駄作は作者の日常ですから、駄作は駄作で楽しめばいいのですが、
というのも、駄作なくして真作は生まれないと思うからです。
問題は、何のために描くのかです。
感性の中で人は癒されるように、そんな絵を描きたいのですが、
結局、そのためには駄作を経験しつくすしかないのだろうと思います。
そしてその中で幾多の気付きを得ることなのでしょう。
今回の駄作騒動は
そんな中の一つの気付きだった訳です。
コメントで、いろいろご心配をおかけしましたが、
無言もまたいいものだと思いました。
お気遣いありがとうございました。
御礼申し上げます。
月の裏側へ行けそうな予感に『思考』さんが興奮して突っ走り…かすめて落ちて、一瞬ボーゼン、しかし次には納得。
そんな感じの冒険、だったのでしょうか?
再び、心を込めてお白湯を供させていただきます。
のたのた修行中の身には恐ろしい冒険譚のように感じます。
世界(宇宙、でも、自然、でも、絶対、でも可。この場合、言葉をあまり厳密にする意味はないでしょう)は完璧に出来上がっていて、私の出る幕はない。
私の『思考』が陥りがちな泣き言です(苦笑)。
その完璧な世界から、私、という器がすくいとった、あるいは感じ取ったモノを世界へ差し出す。『日本語で書いたフィクション』という形で。
別に誰に頼まれたのでもない、自分がやりたくてやってるのだ。
何故やりたいのかは、知らん。
やりたくてやってる、としかわからない。
そんな辺りでウロウロ、の私には、感性のままの創作も、思考が感性方面まで行ったらしい創作も、体感としてはわからない気がします。
でも、何かをつかんだマスターの今後を応援させていただきます。
私もお白湯、いただきますね。
長い目で見ればその違いは歴然となります。
つまり己の感性が喜ぶ作品は、人の心に達しますが、そうでない作品は自己満足の域を出ませんから、人とつながらない。
どれだけそんな作品(駄作)を生み出したか分かりませんが、失敗だけが教えの言葉となる世界です。
何度も繰り返すしかありません。
失敗がないと見えない
次の作品が、すでに目の前にあります。
白湯を頂いて、
ギャラリーに向かいましょう。
おはようございます!
今日はナウイズム二人展のフィナーレ日
お祝い申し上げます☆♪
万感の思いがおありでしょうけれど、
無言の雄弁を学ばせて頂いております。
現代音楽の作曲家ジョン・ケージが
1952年に作曲なさった「4分33秒」は
3楽章から成る楽曲ですが、
全楽章の楽譜はすべて休みとなっています。
けれども指揮者は指揮台に登り、
演奏者はしっかりと演奏態勢に入ります。
そして「4分33秒」の無音の音楽が響き轟きます。
なんだかのしてんてんさんの無言から
ジョン・ケージの「4分33秒」を思い出しましたけれど、
考えましたら、絵画も実は無言なのですよね。
けれども絵画の造形波動は、
言語をはるかに凌駕する無限の世界をも展開、
観賞者に感動と深現実の無限(夢幻)意識の覚醒を
促してくださいます。有り難いです^ね^
これからもどうぞよろしくお願いいたします☆
また私事にご心配くださいましてありがとうごさいます。
目薬を左目に1日に4回点滴しているのですが、
ますます真っ赤か、痛みはないのですが、
月曜日に、病院に電話をして尋ねてみようと思っています。
それではまた、いつものしてんてん力をありがとうごさいます!
今日もお忙しいでしょうけれど、
善き日をお過ごしくたさいませね☆
感謝一念
まかこ 拝
そのエピソードは昔聞いたことがあります。
会場はどんな様子だったのでしょう^ね^
すべて休符の楽曲
それを思い至った心の背景には何があったのか。
演奏の指揮を振った指揮者は?
楽器奏者は?
ただ一つの神の楽曲に耳をかたむけ、リズムをとり、奏者として待機する。
長大な第九の演奏で、常ならず気になっていたシンバル奏者の心境と近いのでしょうか。
1時間あまりの演奏にわずか数秒の演奏。しかし59分の休符も演奏だと聞いた気がしますが、その演奏が、行われた訳ですよね。
絵に即して言えば、
真っ白なキャンバスということでしょうか。
そこに神の絵がある。
私の求める絵も、まさにその上にあるのでしょう^ね^
眼の充血
早く治まりますように。
注意して外出してくださいね。
ありがとうごさいます。
どうも病院からの目薬は
私には合わないようです。
本来結膜下出血は、
自然治癒できるそうなので
点眼を止め、ドラッグストアの薬剤師さんに
お伺いしまして、市販の目薬を試してみます。
結膜下出血が治癒しなければ、
次の手術が出来ませんので、がんばります^ね^;;
今夜はナウイズム二人展の打ち上げですか☆
お楽しみくださいませね♪
いつもお気遣い感謝申し上げますm(_ _)m
カウンターで乾杯!
楽しい2週間でした。
また報告いたしますね。
眼の充血ですが、出血が止まっても、眼の中に拡がった血液が吸収されるのには少々時間がかかるのでしょうね。
きっと、忘れたころに、きれいな目になっていると気付くくらいだと思いますので、鬱陶しいですが、我慢してください^ね^
視力に異常が無いようですから、大丈夫です^よ^。
これから気を送ります。
雑談に来ました☺。
『二人展』の時にご教示いただいたことをぼんやり考えたりしながら、新しい短編を書きかけております。
ホラーっぽい話を書こうとすると、同じテーマにゆきがち、なのでしょうか?
いや、別にホラーでなくても同じテーマ?
同じテーマで書こうと『考えた』ことは、思い返してもないのですけど。
思い付いた話(ハッピーエンドだろうとバットエンドだろうと)を書いているだけなのですが……それがみんな同じテーマ・同じにおいが無意識で出てくるとしたら、あの忌まわしい?私の癖・キョーフの『色鉛筆』がそろそろと出張って来やがってるのでしょうか(笑)?
まあ、冗談半分本気半分の懸念ですが、『読まされて苦しい』作品は駄作です。
同じテーマでモノを書くのは悪いことでもないでしょう。
自分も楽しく読者も楽しい、広い意味でのエンタメならいいのですから。
ただ……自分は無意識、なのが少し怖いというか、あぶないかも?と。
かの『こがらし…』以前の閉塞感を思い出しました。少し違う気もしなくないのですが…どう違うのか上手く表現出来ないですね〰(苦笑)。
思考ではなく感性が喜ぶ創作。
修行が足りないのでしょう、これがそう、というのがはっきりつかめ切れてない気がします。
ここのところは、ある程度は書き続けることでしか見えてこないのでしょうね。
演劇部と文芸部の戦いをしてはいませんか?
演劇部に身を染めながら、文芸部という本性を殺さないようにやってきた。
そんな高校時代だったのでは、と勝手に想像しますが、
そんな葛藤が今もあって、演劇部的物語を書くのは、敗北という思いがあるような気がして・・・・
私としては
演劇部的文学に目覚めていただきたいのです^よ^
そんな大層な闘い、してなかったような気がするんですけど〰(苦笑)。
……してたのかしら?う、うーん……。
演劇に目覚めた?のは、中学3年の文化祭。
何故かクラスで映画を撮ることになり……しかし自意識過剰な中学生、誰も役者をやりたがらない。
で、お鉢が回ってきたのが私と私の友人たち。
マジメで大人しく、校則違反もしない気の弱い連中(と思われていました)、決まったらしぶしぶでもやりよるやろ、と思われるメンツでした(苦笑)。
腹立った部分もあった私、いっちばん自分の外向きキャラから遠い『学校一のスケバン・三田村』の役を率先してやりました(笑)。
いや~痛快でした。
撮影当日、母に頼んで当時伸ばしていた髪を幾つもの細かい三つ編みに編んでもらいました。
撮影直前にそれをほどくと、チリチリのカーリーヘア(死語)。
背の高い同級生から借りた制服のスカートをはくと、見事なお引きずりスカートに。
色付きリップクリームを塗り、肩で風を切るようにトイレから出てくると(トイレで身支度しました。眼鏡も当然外してますから、目付きも悪い)、たまたま廊下にいた1年生の少女が目を逸らしました(笑)。
台詞も当然、スケバンなんですから荒っぽい。
『オラオラオラ』とか『ふざけんな』とか、当時のユートーセーの私なら絶対口にしない、そんなののオンパレード。
同級生たちが若干ヒくくらい、ノリノリで演じましたっけ。
『演じる』って面白い❗と思った、決定的なエポックメイキングです。
演劇、やってみたい、と。
ま、ヘボ役者であることは、1年経つ頃にはわかりましたけど。
本格的に『お話、書きたい』と思ったのは、己れがヘボ役者であるのを痛感してしばらく経った、部活の引退後……のような気がします、自分とすれば。
ヘボ役者の理由もヘボ物書きの理由も、一緒なのかもしれません(トホホ)。
……が。
演劇的小説を書いたら負け、とは、思ってないですね〰。
少なくとも自分ではそんなこと、思ったことないです。
やはりあの、忌まわしき?色鉛筆……自分語りのオバケが出張って来やがってるのでしょうか?
……説明すんな、ちゅうねん。
『宿命の敵』ですので、老リュクサレイノ以上(笑)にやっかいであります。
『天翔る龍の閃き』(剣心が会得した奥義)を会得する日はまだまだ遠い、と。
いやまあ、それならそれで、腹をくくって精進しましょう。
私のエンタメ(演者としても客としても)の原点は、メソッド『即興』です。
形のカチッと決まった話も書き続けるつもりですが、『即興』みたいに、基本設定だけ決めて後はひたすらネバーエンディングストーリー、書けるだけ書く、みたいな練習、した方がいいのかもしれませんね。
記憶違いかもしれませんが、
確かなことは、高校で文芸部に入りたかったのだけれど、部がなかったので、それに近い(?)演劇部に入ったんだと、ちょっと深刻そうに言ってたことです。
ま、それはどうでもいいのですが、物語も演劇空間と同じだと言いたかったのです。
舞台の登場人物が、自分の顛末を棒立ちで説明しはじめたら、カットものですよね。
つまり演劇空間を思い描きながら物語を紡いでいくのがいいのではと思ったのです。