私の浅はかな心もちを暴露されて白紙に戻され、創作の機会を与えるに価値なしと下された和尚様の話しを、私は胃がよじれるような恥ずかしさで聴いておりました。
結局あなたは20年たっても交わらない立ち位置にいる。どこまで行っても平行線だと、心に響き渡る声でした。
もちろん和尚様がそんな露骨な言葉をかけるわけではありませんが、私の心にそう響き渡ったのです。
眠れない夜を無理やり眠り、朝。いくらか落ちついた気持ちで浜まで歩き、一日、己を深められない恥ずかしさを抱えて描きました。それが ↑上の絵です。
まだ完成まで行きませんが、やっと絵のおかげで心が落ち着きました。
結局私は、絵を描いて答えを出すしかないと理解いたしました。
この龍↓を描いてから
自分の中に龍が棲みついたような感覚があって、それはとても不確かなのもなのですが、線を引く過程で姿を現してくれる。
描こうとしたらダメで、しかし描かなかったら絵にならない。そのはざまで描くということを自分のものにするためには無心になって線を引くしかないようです。
つかめそうでつかめない微妙なところで進めていますが、
これは↓その2枚目。しかしこれでは形に対する意識が強すぎるのです
つかめそうでつかめないもどかしさですが、
鉛筆にまみれているその瞬間の至福感はありますので、方向は間違っていないと思っています。
とにかく納得のいくところまで進むしかありません。
お堂での制作はなくなりましたが、和尚様から頂いたイメージをふくらませ続けたいと思いますので、応援よろしくお願いいたします。
クリックで大画面が見れます(1.4m×1.4m)
…私はこの言葉に最大の勇気を分けていただいたと想います。気流を呼ぶ龍を見て、この記事を読み、…励まされるような勇気が勝手ながら湧きました。
…気流を呼ぶ龍から”壮絶な渇望感を感じた…そして龍の特徴を明確に描こうとしている事も”
実は恥ずかしい話ですが…ほぼ毎度のしてんてん様の絵を拝見させていただいて
「…なぜ自分の作品にはこうしたチカラが皆無なのか…一線を越えたチカラがない…!!」
と嫉妬してはいたりします。
そんな時、自分に言い聞かせている言葉でのありました。”自分のチカラで作るしかない。作り挑むしかない。それしかない。”
もちろん…目指しているのは相手に負けを認めさせるというくだらない事ではありません…”人の心に残る、私が死んでも残るような神に挑む作品をこの一生で残す。”
…感情も全ても推進力にして…絵を持って語る…真意だと私は想いました。
これからものしてんてん様の絵画を見たい、と。
今回のお話、昔読んだミヒャエル・エンデの『はてしない物語』にあるエピソードをなんとなく思い出しました。
女王・幼ごころの君を救う試練の旅でアトレーユは、すべての問いに答えてくれるお告げ所へ。
しかし、お告げをしてくれるウユララに会うには3つの門をくぐり抜けなくてはならない。
どれもくぐるのが難しいが、最後の門をくぐるのが一番難しい。
『あらゆる意図を忘れ、あらゆる意志を捨てることができれば、扉は自ずと開く』
逆に言うと、忘れ、捨てることの出来ない者は決して通れない。
できる訳ない、とアトレーユは目を伏せるが、彼は門へと進む。
第二の魔法の門、自分自身の真の姿を映し出す鏡の門をくぐった途端、彼は何故か目標も意図も一切忘れ、うまれたばかりの子供のようになり、ただただ楽しくなって最終的には最後の門をくぐり、楽しくウキウキと奥へ進んでウユララに会う。
そして、意図も意志も忘れていたのに、彼は欲しかった答えを手にする。
最初に読んだのは学生の頃ですが、意図も意志も忘れた者が何故正しい答えを得られるのだろう、と思いました。
今でもわかっているとは思えませんが、この一連のお話、通じるような気がなんとなく致します。
私の心が、折師さんに初めて出遭ったのは、まさに、この言葉でした。
生きる意味を、そんな風に必死で考える姿に真摯なものを感じたのです。
その思いがやがて、自分を責める方向から、ありのままの自分を認め受け入れることで実現していくという想いに変わっていく折師さんをなんとなく感じて、
力づけられているのですよ。
折師さん、チカラは求めるものではなく、自分をプラス思考で受け入れて生きることなのだと思っています。
嫉妬心がおこったら、それはどこかに自分の間違った考え方があることを教えてくれていると意識してください。
必ず結論は
”自分のチカラで作るしかない。作り挑むしかない。それしかない。”
ということに行き着くという体験を何度も何度も繰り返しているのが見えてきます^よ^
人との付き合いの問題もね、繕わず自分のまま楽しんだら、必ず必要な時に必要な人が現れるのですから、
自分を「よし」とすることはすべてに共通する大切なことなのでしょうね。
私の場合、
その前にエドガー・エンデ(彼の父)の絵の方に興味をひかれていました。
あとで彼らが親子だったと知って、驚きと納得をした記憶があります。
人が歩くのと同じかもしれません。
左右交互に踏み出す。
それが歩く論理的な意味であり、目標となりますが、
何も考えずに歩く時と
それを思い描きながら歩くのとでは、名優と大根の差がありますよね。
歩くように出来ているなら、歩けばいい。
作品を生み出すように出来ているのなら、生みだせばいい。
そんな要素が、闇のイメージとつながって、親子の作品に流れているような感じですね。
何処か不気味ながら一度見たら忘れられない、そんな絵でした。
ミヒャエル・エンデは、好きな作家であると同時に、私が漠然と思い描いていた『書くことでやりたかった』事を、はるかに高いレベルで何十年?も前にさらっとやってる越えられない山、好きなんだけど読んでるうちにリアルに気持ち悪くなる不思議な作家さん、です。気持ち悪くなる直接的な描写なんか、ないんですけどね。
強いて例えるのなら、袋小路で酸欠になるような?彼が書いている世界は、決して閉じている訳じゃないんですけどね〰。
息苦しくなります。
エドガー氏の絵にも同じような世界観、感じます。
その閉塞感というのは、多分同じところから感じているのかもしれませんね。
親の方の絵は、暗い色調の絵ですがそれ以上に気持ち悪くなるのは、心の内面を直接描いているからかもしれません。
人には言えないような欲望を写実すると言ったらいいのかもしれません。
そして子の方の小説も同じ色を持っているように思えるのです。(知らんけど)
不思議なほど同じイメージを持っている親子という気がします。
…このブログを始めた当初から…〆として変わらぬ想い…根幹は変わっていない…改めて想いました。
ただ、のしてんてん様のおっしゃる通り前置きの文は…変わりましたね
「…職を失い、自らの命を絶つ前に…」から「…この命の意味を証明する、この世に生まれた意味を示すために」へ
認め受け入れるようになれたのはのしてんてん様、真鹿子様の助言でこの世に生まれた
「たんぽぽ」
のおかげです…本当に。私の一生で今のところ唯一無二の勲章を持つ作品。
この作品がひとつの”認められた傑作”となって、出来上がった記録が自分を許すきっかけになりました。
”チカラは求めるものではなく、自分をプラス思考で受け入れて生きること”
…かつて私が”人生に価値はない…”と腐っていた時も掛けて下さった言葉、そうだった気がします。(あの記事は…もう現存しないのですが汗)
…まだまだ未熟ではあります…されどあの頃からずっと遠くに来て、それだけの物を積み重ねてきた人生だと想ってはいます。
”自分を「よし」とすることはすべてに共通する大切なことなのでしょうね。”
…自分を「由」とすると書いて自由。そんな事を想っていました。
いろいろと考えることはまだありますが、迷いの後自分でも答えを紡いでいく…そうしたいと。
本当に、改めて…記事と、言葉に感謝を…!!
以下やや駄文
自由に羽ばたいていく、その先に何かがあると信じて…遠く、高く…(…誰も伴侶になれない気も…あれ?)
おはようございます!
「気流を呼ぶ龍」2枚目も、
流動(龍動)エネルギーの躍動感が
力強くてよいと思うのですが、
形に対する意識が強すぎるのですね。
確かに線を引くことには、
吸心力があるのでしょうか、
無心になりますね。
私たちは宇宙の素粒子で構成されている
という観点から観ましても、
宇宙とは一体、宇宙の一部ですが、
ゴッホの星月夜の渦巻きなども、
ゴッホが筆を動かし無心となり、
宇宙との一体感が強化!出現した渦巻き
宇宙流動(龍動)エネルギーの渦巻き
「龍の形を超えた龍」
ゴッホ龍だと感じるのですが、
創作の可能性は無限大です。
「龍の形を超えた龍」も、
いつの日かのしてんてん画伯にも
描いて戴きたいと願望しております☆
厚かましいお願いで恐縮なのですが、
よろしくお願いいたしますm(__)m
もうすこしすると草引きです^ね^
今日もどうぞ善き1日をお過ごしくださいませ
いつもながらのお心遣いのしてんてん天力!
感謝申し上げます。
まかこ 拝
自分を変える力、自分を成長させる力、それは外からの力ではありませんね。
それは折師さんが体験されたように、「気付き」なのです。
自分を許すというのは、許せない自分を取り巻いているよき自分に気付くことなんだと思います。
生きるという意味が、
「…職を失い、自らの命を絶つ前に…」から「…この命の意味を証明する、この世に生まれた意味を示すために」
と変化した心はある意味、泥を黄金に変えたのと同じくらい崇高なことだと思います。そして折師さんをそうさせたのは、他でもない、折師さんの心の「気付き」なのです^よ^
私の考えでは、折師さんの「気づき」の原動力はきっと、生きることへの真摯な想いなんだろうと思いますし、折師さんには見えないところで、その真摯さが感動を呼んで人の役に立っているということです。
(私の感動は見えないでしょ^ぅ^)
自由の解釈も素晴らしいです。
まるごとの自分を「よし」として、その自分に由って生きていたら、必ず相棒は現れてきます^よ^
言われるように、人生は迷いが常ですけれど、必ずどこかにそれが「よし」と言える答えがある。
そう信じて行きましょ^う^すでに一つそれを実証されたのですか^ら^ね^
なぜかふと、これが自我なんだなと思いました。
最近立ち顕れてくる苦悩をみておりますと、それはみなこの傘の中で起こっていることだと思えたのです^ね^
認めがたい自分が、傘の中で黒い渦を巻いている。まるでブラックホールのように、よきものを飲み込んで行こうとしている。
そんなイメージが生まれました。
するとこんな答えが見えました。
認めがたい自分を認めたら、なんということでしょう、私の皮膚が膨らんで、傘の中の暗い闇を取り込んでしまったのです。
私の皮膚は雨があたっている傘の表面にまで膨らんだのです^ね^
あぁ、私は摩訶不思議宇宙に包まれているんだ。
そんな妄想を楽しみながら歩いておりました^よ^