展示会場のミニチュア、完成しました。
展示作品もほぼ固まってきましたので、
段ボールで作った会場の壁を白に塗って、
作品のミニチュアを貼りつけてみました。
どうでもいいことなのですが、2月6日~7日の飾り付けで、同じ場所から撮影した写真と比べてみたいと、幼稚な遊び心を躍らしています。
組作品「ナウイズムの夢」
44+2枚のピースを並べ、その組み合わせから気に入った作品を探す。
こんなウエブが見つかりました。
一枚一枚を作品として成り立つレベルで仕上げていますが、それを組み合わせて新しい作品の姿を探る。
この中に最高の一枚があるはず。
しかしそれを発見するために計画は立たない。事前の知識も、想像力も役に立たない。それは神のみぞ知る偶然の出会いしかないというのは、まさにナウイズム を象徴する作品になったと今は思っています。
問題は、良き出会いがあるかどうか。
今を見つめて描き続けた各ピース作品に、こんなウエブがあったというのはうれしいことですが、まだまだあきらめず、探してみたいと思います。
ナウイズム旗揚げ展に向けて、その宣伝も兼ねて、
何日かに渡り、展示作品を紹介していきたいと思っています。
まず最初は、この組作品「ナウイズムの夢」
各ピースは1枚の独立した作品ですが、それを4枚組み合わせて一つのテーマを表現する形で制作したものです。全体で16のテーマで成り立っている組作品ということになります。
これは実際の展示では見えてきませんので、
次回から制作順に、テーマに沿った作品を見ていただきたいと思います。
ご期待ください。
後はくれぐれもお身体に気を付けて、当日をお迎え下さい。
さて。まったく関係ないですけど、何故か最近、古〰い中島みゆきのベスト版を繰り返し、聴いています。
『時代』は昔から好きですが、今も好きです。『横恋慕』『ひとり』も、思いを残しながらも自分の意志で恋と決別するヒロイン?の前向きな感じが、これも昔から好きで、今も好き……私の好みは思春期から変わっていない、様子。
ニンゲンというのはそう変わらないモノなのか、はたまた私が単に進歩しないのか(苦笑)。
いやスミマセン、知らない方にはなんのこっちゃ、な話でした。
ただこのベスト版、主に高校生❗の頃に聴いていて……すっかり忘れていたモノだったんですけど急に懐かしくなり、改めて聴いて、すっかりハマッてしまいまして。
聴いている歌や曲、というのは私の場合、自分の書きたい話にリンクする事が多いのです。
不意に『あ、むかーしに聴いたあの歌(曲)、聴きたい』と思う時は大抵、生まれようとしている物語とナニかが近い、ものでして。
かといって今、中島みゆき的?なお話を書くつもりではナイのですが。
ハイファンタジーの王子様の、両親の世代の話を設定しながら書いているのですけど……あ、ひとり思い浮かびました、中島みゆき的失恋ソングのヒロインのような人。脇キャラですけど(笑)。
マスターはそんなこと、ないのでしょうか?
そんな舞台になりますね。
自分の世界をどう展開して、一般人の中に納得した(ある意味合理的な)イメージを与えるのか。
それが一番難しいのではないでしょうか。
自分のイメージの中では完璧な作品があって、さらにその作品にどうやって他人の心を引っ張り込んでいくのか。
そこがハイファンタジーの命ですから、覚悟を決めて王子様を育ててください^ね^。
想定した他人の心(読ませたい人)があって、その人がわかるように語りかける。
コーヒを飲みながら繰り出すたわごとですが、
お変わりどうです?
読むのと書くのは大違い。
いやまあ耽美❗な作品を書くことを思えば、たとえ指一本とはいえ、その世界に引っかかってよじ登れそうな予感がありますけど。
『耽美』は駄目でしょうね〰。読むのもシンドくなってくるから、おそらく向いてナイのでしょう。
『ありふれた感情や葛藤を描写するのに、その世界観は大仰すぎる』『一般的な読者にはつらい』
例の王朝絵巻風ハイファンタジーのお話の、投稿先の編集部からもらった評価シートの内容をバクッとまとめるとそんな感じ、でしょうか?
そういう意味からしたら、いっそ短編小説の方が向いてるのでしょうか、ワタクシ。
大仰な世界観を描写する余裕もないので(苦笑)。
しかし『大仰な世界観』はある意味、ハイファンタジーのいのち。魅力。
そこに違和感があるとしたら、そりゃ作者の腕がヘボ、ということで。身もふたもないですけど。
王子様はいずれ王様になります。
たとえ社会的には王様にならなくても、少なくとも『自分』という国の王にならなくては、イマ風に言うなら『イタいヒト』で終わってしまいます。くせ者の王子様がくせ者なりに懐の深い大人……王に育つよう、見守りたいです。
オカンはむつかしいです。
生身の方も、生身じゃない方も。
失礼しました、タダの愚痴でした。では、また。
『知らんけど』
いいですね〰、笑いながら共感しました。
言いますね〰確かに。……知らんけど(笑)。
話しを伝えたいのか、舞台を見せたいのか。
舞台を見せたいために話を添えていると思われてしまうと、読む側の人間は、書き手の世界観を押し付けられると思ってしまうのでしょう。
そう思わせないためには、舞台となった世界観を縦横無尽に駆け巡る躍動感が必要なのですね。
むっちゃんはへぼなのではなくて、話を煮詰めようとする意識が強すぎるのではないかなぁ
もっと無責任に主人公を走らせて、あとは知らんというぐらいがいいのではと思いますね。
たとえば新セリナの物語の「映子」をそのまま、ファンタジーの世界観に持ってきたら違和感ありますもの^ね^
知らんけど。
金髪碧眼のにーちゃんねーちゃんがうろうろしている西欧風世界の中で、バリバリ日本人の中年女性が夫の後頭部を睨みながら包丁を研ぐ……うーん。ホラーというより、ギャグだ〰。
ある意味、狂気はパワーアップするカモ……作品の、というよりは、作者の(笑)。
『映子』のような性格の中年女性がハイファンタジー的世界にいてももちろん良いんですけど、『映子』そのままではダメ。そういうこと、なのはわかります。その辺は……気を付けて書いているつもりですが。
塩梅が悪い一番の問題は。
私がやっぱり、多少は直ったとはいえ『過保護なオカン』だから、という部分のせいかもしれません。
うまーく子離れ、したいです。
登場人物を放任できない?
まあ、たわごとと思って聞いてください。
自分の生み出したもの、手を加えなければ育たない。
でも手を加えたら、己サイズのものが出来上がる。それが小さい。
このジレンマを解決するのに、絵の世界で言えば、こんな方法があります。
何も考えず自動筆記で絵を描き、そこで生まれてきたものを、自分の頭で無理やり説明をつける。
創作の主人公の座を神さまに明け渡して、そこから出てきたものにもっともらしい解説をつけて作品にするのです。
そんなことを続けていると、だんだん、神様の絵と自分の考えが近づいてくる。
そんな創作方法は、文学には参考にならないでしょうか。
最初から、書き手にならず、読み手となって楽しみながら書く。
そうして最後まで読み手として楽しむことが出来たら、誰が読んでも楽しめる。
理想論かなぁ
創作の出発点というか、原点というか、そんな感じがします。
創作の神様に明け渡す境地には遠いですが、書いてる内に『あっ』と思うことは何度か。
『芹里奈の影』を例にするなら、ラスト間際の一文『娘の名前を呼ぶことで、この世で一番愛しい女の名前を呼び続けられることを思い付いた、男の狡猾が許せない』は、書いた一瞬後に『あっ』と思いました。
そっか~、この人が一番ムカついて絶望してる部分がここなのか、それをどう説明しても夫には伝わらない、絶対理解してくれないだろうところが、この人を追い詰め、包丁を研がせる?のか、と、書いた後で思いました。
ヒロインの気分や状況・ストーリーの流れは確かに私(作者)が設定し、組み立てるのですが。
彼女の感情のキモは、この一文を書くまでどこかピントがボケていたような気がします、今思えば。
この一文は私ではなく(『芹里奈の影が、私を殺す』のリフレインは、作者が半ば以上、意識して書いた気がします)、映子さん自身のつぶやきが書かせた、ような。
『書いた自分が一番びっくり』という経験、これ以外にもなくはないのですが。
もっともっと、積み重ねた方が過保護防止には良いのかも……と、ちょっと思いました(笑)。
この一文は確かに良かったです。
ものがたりの全編を一気に貫くような強さがあって、このヒトことで、物語に心地よい意味づけが生まれましたね。
そんな経験を出来るだけたくさん積むことです。
「積み重ねた方が過保護防止には良いのかも」
ではなく、それしかないという強い思いと覚悟だけが、過保護をなくせるのです。^よ^