私とは何か
その境界線はあるのか
そう問われば答えは見つからない
私と私でない部分はあるのか
この身体が境界線なのだろうか
呼吸が止まれば生きていけないのが私だ
この身体に境界線を引いたら
命の気(空気)は分断される
この命が私だとすれば
私の境界線は空間の彼方まで伸びていく
空気は空間があってエネルギーがが与えられる
その空を追って
境界線を探して追って行けば
それは宇宙の果てまでつながったままだ
夢と現の間に境界線があるのか
冥界や霊界があって
現の私はその間に境界線を観るのだろうか
それもまた否と言うほかはない
夢と現
言葉に表せない感覚、感性、感情
世界を感じている一切のもの
それを感じさせるものはただ一つだ
私を知らしめる意識である
夢と現に境界などない
あるのはたった一つの意識であって
それが私と云うしかないだろう
意識に境界線はない
故に夢と現は一つの私なのである
ではその私は何なのか
それを知性で知ることはできない
分からないというしかない
何故なら
私の意識は常に内側に存在するからだ
リンゴの内側を私と考えたら分かるだろう
私の知性は外を認識できない
リンゴの中にいる限り
リンゴの全体を観ることはできない
それが知性の限界でもある
故に人は
己という果実を理解するのではない
それは生涯にわたって味わい尽くすことなのだ
私と云うリンゴを
甘く新鮮な味わいに育てることだ
この上ない
特上の果実に育て
それを味わい尽くす
それが人生の意味ではないだろうか
五次元で観る風景は
たわわに実った果実の
無限に拡がる
美味なる味わいなのである
つまり、向こう側とこちら側を分ける意識は、あちらとこちらの間で生ずるわけですが、あちらとこちらを分けることが可能になるのが、仮に5次元の世界だとすれば、5次元の世界とは主客未分の状態だといえるわけです。
あえて主体や客体を必要としない状態を
「体験」と呼ぶわけです。
最近は「とき」というリンゴがお気に入りです。
その立っているのは誰なのですか?
五次元が主客未分であることはその通りだと思います。その体験をすべての価値と捉えることで人類に新しい世界が見えてくるかも知れないと思います。
ときには毒リンゴもありますのでご用心ご用心。
持てなければただの毒になることも経験上あり得ると思います。
純粋に体験を理解するために必要なのは主客不要の五次元思考が望ましいのではないかというのが長年の私の主張なのです。時間の概念は主客があって認識する世界なので、四次元から五次元の移行は本来の人間存在により近づくと思えるのです。
仮に5次元が主客未分の次元だとすれば、実際はそれ以上の次元で生きているのが言語を獲得した一般的な人間でしょう。
何をもって純粋とするのかは私には分かりませんが、取消しようのない事実としてこの世に生きている自分は確かにrealに感じます。
少なくとも、生きることに価値や意味が見出せるのは、果たそうとして果たせない現実に、まだ可能性があると思える限りにおいてのことです。
世界をスケールで理解すると主客がなくなるというのは、己の空に対して言葉がいらないからです。そこでは当然意味などという言葉もいらないでしょう。充足感があるだけだと思いますね。
取り返しがつかないことがリアルなのではなく思考の拘りが、満たされた無の中で際立つからではないでしょうか。
そもそも取り返しのつかないものなど、五次元の思考の中に存在しないでしょう。あるのは今この瞬間の充足感なのですから。
取消せないと言っているのです。
5次元ではなく、それ以上の次元について書いたつもりなのですが・・・
次元の話は、以上も以下も、その数を議論するのは不毛ですね。実在に次元などないのですから。あるのは実在に対する態度であって人の数だけあります。
私の言う五次元は、そんな中で共通に受け入れられるであろう実在への科学的なアプローチなのです。実在を認識する道具ですね。三次元で空間と物質を知り、時間で広がりを知り。スケールで全体を知る。それだけの話なのです。
ZIPさんはそれから先の話をされているのでしょうか。いわゆる人生論?