28日(日曜)まで。
堀尾さん、そう気さくに呼びかけて、深い話を聞かせていただく。
そんな方でした。
吉原治良率いる具体美術協会に参加し、解散まで在籍して、その後独自の芸術論を展開し、生きるという事をそのまま作品とする独特の方法で存在感を示し続けておられました。
先年の11月に突然の訃報が入り、愕然としました。
今回ありがたいことに、ぎゃらりー由芽様によって、表示のとおり、フアンが堀尾さんへの思いを捧げるよき機会を設けていただきました。
私も参加させていただきます。
私の想い描く宇宙、当ブログでも紹介した宇宙論がたまたまこの機会に冊子としてまとまりましたので、これを捧げたいと思います。
心のあり方、宇宙の在り様、生きるという事、そんな事柄を「あたりまえのこと」とらえていた堀尾さんに、私のできる賛同の想いです。
この作品は直接堀尾さんから頂いたもの、
2010年正月の作品(紙粘土)です。
堀尾さんは「空気を可視化する」という事を、芸術活動の目標とされていました。
その考えはたくさんのフアンに伝わって行ったのではないかと思います。
「空気」それはその存在を忘れるほど「当たり前のこと」でありながら、それがなければ生きられない「真実」が詰まっている。
この「当たり前のこと」にどう気付き、空気のあたりまえが最高の価値であると言うことをどのようにして目に見えるようにするのか。
それが芸術家の使命だというのです。
それは当たり前に生きていることそのものが芸術という考えに結び付きます。
息をすること、それ自体がすでに芸術だ。
おそらくそんな想いから堀尾さんの芸術は、うまい下手に完全に無頓着で、己の呼吸や瞬間の行動を定着していくパフォーマンスに向かいました。
具体の仲間達からは、下手を芸術に変えた男というふうに評価されているように私には思われました。誰にでもできること。それを芸術に昇華させる。それは並々ならぬ才能だったと言えるのではないかと思います。
こんなピソードもあります。
個展会場にやってきたお客さんが、がらんとしたギャラリーを見て、なんだまだやっていないのかと尋ねたところ、堀尾さんはこれが個展だと胸を張ったのだそうです。
よく見るとギャラリーの壁面に一本釘が打ってある。
たったこれだけの展示をギャラリー会場で行う勇気は、ゆるぎない思いがなければできないことです。その客は首をひねって帰ったそうですが、与えられると思うだけのお客さんには、何も得られないかもしれないと笑っておられました。
ある日彼は模造紙で無動作に作った巻物を見せてくれました。
それは延々と何メートルにも及ぶ巻物で、個展の日程表を棒線で現したものでした。いくつものギャラリーの個展が時系列で示されていて、それを見ると、一年を通じて、休むことなくどこかで何かを表現しているというものでした。たくさんの棒線が前後で重なって途切れることがないのです。まさに息をすることが芸術であるという事を具現した生き方だったのだと思います。
堀尾さんにとって、作品展示は目的ではなく、当たり前の呼吸のようなものだった。
空気の可視化という事が、こんな形で表れていると驚いたものです。
今回の堀尾貞治展には作品と論文での参加です。
堀尾さんの空気への想いと、追悼の思いを込めて、私の「凡人が語る宇宙論(アインシュタイン讃歌)」を冊子にして、のしてんてん絵画と共に展示する初めての試みです。
この作品は展示作品ではありませんが、「ゆめのなかの堀尾貞治展」への想いに添えてみました。
※「凡人が語る宇宙論」は当ブログで同名で連載した記事をまとめたものです。興味ある方は、メッセージを送る からご一報ください。冊子をお送りいたします。
池に 浮かんでいる青いネット類は、
外来種(魚、ザリガニ、亀など)の捕獲用の
わな です。
三宝寺池も 同様 わなを仕掛けています。
その環境を守る見えない努力もあるという事を知りました。
ありがとうございま^す^