野の花が、ひそやかに咲くように、
人もまたひそやかに生きている。
だれにも知られず、
また知られようとも思わない。
あなたの内面の奥底には、ゆったりと流れる自然があるのだ。
あるがままに。
人もまた自然のままに生きている。
まさに、この肉体は自然そのものである。
心臓が鼓動し、血液は体内をくまなく巡っている。
呼吸は自然に繰り返され、
食物は体内で消化されている。
この身体の営みに、人為的なものは何もない。
あなたは、
自分の身体を、
自分の思い通りにすることは出来ないだろう。
胃は勝手に食物を消化している。
心臓は血液を送り続ける。
自然に肉体は成長し、年老いていく。
眠りも目覚めも、自然にやってくる。
あなたは、
知らないうちにこの世に生まれて来た。
そして死もまた知らないうちにやって来る。
あなたは自分の死でさえ知り得ないのだ。
自分の身体だといいながら、
あなたは何一つとして、あなたの身体にかかわることが出来ない。
あなたが何を考え、何を望もうが、
身体はあなたの命令に従うのではなく
自然の流れに従っている。
あなたのことなどまるで気にする事なく、
ただあるがままに、自然の、宇宙の摂理に従って生きているのだ。
野に咲く花のように、
何も求めず、今ここにあるそのことに満ち足りている。
そこに永遠の充足と安らぎがある。
この身体の安らかな自然の流れに、
何一つかかわれないあなたは一体何だろう。
あなたは、
あなた自身の身体から切り離されているのだ。
身体はこんなにも自然で、豊かに流れているのに、
あなたは不自然なままだ。
身体はこんなにも充足しているのに、
あなたは不満をもち続ける。
身体は無心で息づいているのに、
あなたはたくさんのことを考え続ける。
あなたは何なんだろう。
あなたは毎日、他人から非難されることを恐れている。
あなたは毎日、正しい自分を演じようとしている。
あなたは毎日、あるべき自分の姿を追い求めている。
それなのにあなたは、
時として、必要なことを忘れてしまったり、
思い違いをしたり、
間違ったことをする。
その度に、
あなたは、失敗した様々な事柄にいい訳を考える。
他人から、
いつも自分は有能だと思ってもらいたい。
自分は正しいと認めてもらいたい。
自分の力を評価してもらいたい。
たとえ失敗しても、
それは仕方なかったのだと知ってもらいたい。
こうしてあなたは、
失敗する度にいい訳を考えなくてはいけなくなる。
あなたは1日として、のんびりしてはいられない。
あなたは、他人の目ばかりを気にして、
毎日を緊張して暮らしている。
うまくやれるだろうか、
失敗しないだろうか、
あなたはまだ失敗もしていないのに、
びくびくしていなければならないのだ。
あなたは、
言い訳をするために、
少しもゆっくりしていられない。
しかし、
あなたを疲れさせるこのいい訳の正体は、
真実を自分の都合のいいように見せようとする、
あなた自身の努力に外ならない。
言い訳は真実ではない。
言い訳は真実を隠そうとする、ありもしない幻想だ。
身体の真実に関われない、あなたに似ている。
実際のところ、
あなたは言い訳そのものなのだ。
あなたは言い訳そのものから成り立っている。
その言い訳が、あなたを真実から遠ざけている。
あなたがのんびりと、くつろいでいられないのはそのためだ。
ストレスはそこからやって来る。
あなたが言い訳を考え、自分の人生を繕おうとすれば、
あなたの身体は自然な流れを歪められ、調和を乱される。
あなたは、
野の花のような自分の存在に関われない代わりに、
自分で作り出した不安といい訳によって、
自然のままの身体を狂わせて行くのだ。
言い訳の背後には不安がある。
自分は不完全だという不安、
人から認められないかもしれなという不安、
世渡りが出来なかったらという不安、
嫌われ、裏切られるかもしれないという不安。
不安は避けようのないものと、
あなたは考える。
あたかも自分の外からやって来てあなたを悩ませているかのように、
あなたは自分を捕らえている不安を、
何か別のもののせいにしたがる。
そこで
言い訳があなたの中で正当化されるのだ。
だが忘れてはならない。
あなたを取り巻く不安はすべて、
あなたが作り出したものだということを。
大きな社会不安といわれるものですら、
あなたの考えの中に作り出されたものなのだ。
他人の不安はあなたのせいではない。
しかしあなたの不安は何であれ、
すべてあなた自身の責任といえる。
あなたは不安を持たないことだってできるのだ。
実際あなたが、
真実の中に生きるならば、
不安はどこにも生まれない。
なぜなら真実は、
それ以外にありようのないものだから。
花が花であるように、
鳥が鳥であるように、
あなたがあなた自身であるならば、
不安はどこから生まれて来るというのだろう。
他人の目を意識し始めると、
あなたは、あなた自身から離れていく。
スミレの花が蓮華になろうとするように、
あなたは、
自分の作り出した理想の姿になろうとして
不安を生み出しはじめる。
不安はあなたの思いであって、真実ではない。
真実ではないからこそ言い訳が必要になって来るのだ。
不安が生まれたら、
それを頭の中で解決しようとしないで、
その不安そのものを見つめてごらん。
目を閉じて、
自分の中のどこにその不安があるのか、探してごらん。
ゆっくりと自分の中に入って行けば、
不安など、どこにも見つけられない事にあなたは驚くだろう。
やがてあなたは、
枯れた花を幽霊と思い込んで怖がっていたように、
なんでもないあなたの思考を、
現実だと思い込んで不安を作り出していたことに気づく。
不安は、
あなたの頭の中で作り出された幻想だということに気づけば、
あなたはいい訳人生から解放されるだろう。
どんなことでも、
いい訳をしたくなったら、
一呼吸おいて自分の内側を眺めてみよう。
するとそこに本当の自分が見えて来る。
あなたが、しまったと思った瞬間に、
そのしまったという思いそのものを見つめてごらん。
するとそこに本当の自分が見えて来る。
絶望的なその瞬間にも、あなたは生きている。
わずかな食べ物と水、そして空気さえあれば、
充足して生きているあなたがそこにある。
それ以上に何が必要だろう。
どんなときでも、
あなたはゆったりと自然のままに生きている。
その尊さが感じられれば、
しまったと思うその瞬間でさえ、
失ったものは何もない事にあなたは気づくだろう。
そうなればどうしていい訳など必要になる?
どうして人目を気にして取り繕う必要がある?
自分が間違っているかどうかなんて、どうして気にする必要がある?
堂々と生きていればいい。
いつも胸を張っていればいい。
伸びやかにただ自分自身であればいい。
無理をして、
自分ではないものになろうと努力する必要はどこにもない。
まるでこの世に自分一人しかいない時のように、
自分自身であり続けなてごらん。
そこに本当のくつろぎがある。
しまったという思いから、
ただ徒に思考を走らせてしまえば、
またもやいい訳が始まるだろう。
うまくいい訳をしてその場を取り繕っても、
問題は少しも解決していない事を見抜かなければならない。
いい訳をした瞬間から、
あなたは自分ではない自分の世界に生き始める。
そうなったら、
あなたは常に自分を作り続けなければならなくなる。
むなしいままに自分を描き続けなければならなくなる。
虚構の自分を本物らしく見せるために、
あなたは絶えず緊張していなければならなくなる。
人に誇れる自分を作るために、
常にあなたは自分を飾り立てなくてはならなくなる。
そして、
自分で作り上げた虚構の自分を失うことが、
死ぬよりも苦しく怖いもののように思い始める。
あなたはますます、強固な鎧を自分に着せなくてはならなくなる。
あなたはストレスで凝り固まってしまうだろう。
ストレスは自分を見失った時から生まれる。
本当の自分から離れれば離れるだけ、ストレスは大きくなる。
いい訳をしたくなったら、
そこが人生の分岐点と思えばいい。
くつろぎの人生か、ストレスの人生か。
真実の人生か、虚構の人生か。
充足した人生か、不安の人生か。
あなたはどちらをとる?
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