11時ごろであっただろうか、ちょうど新たな一群がやって来て、入り口で立ち往生しているところだった。
里依子の一言で私達はそこを出た。外はすでにやって来た時の雨は上がっており、代わりにはく息が白く口から横に流れた。
「歩きましょう」
そう言って私達は所々に水溜りの出来た暗いアスファルトの路を歩き始めた。
私は居酒屋の太った男から解放されて、やっと二人きりになれたという安心感があって、随分落ち着いた足取りで水たまりを避けながら歩き、触れ合う里依子の肩の温かさを独り占めにするのだった。私は演技しなくてもいい自分に言い知れぬ喜びを感じていた。
「面白い人でしたね。」
「初めて話したんです。」
言わずともどちらも先の男のことを言っているのは分かっていた。そしてそれだけで私の心は報われるのだ。すでにあのときの苛立ちは忘れ果て、里依子と共にゆったりと歩調を合わせるだけで彼女の心が私に伝わってくるように思われた。私はこのままずっと歩いていたいと願わずにはいられなかった。
静かな幸福感が私の肌を透明にしてくれる。そして自然に最近聞き始めた楽曲が口からこぼれ出た。バイオリンの旋律が心地よく、里依子を知ってからの私の心によく合い、偶然聞いたその曲が私の気に入ったのだ。レコード店で探しあてて初めてその曲がチャイコフスキーの「悲しみのセレナーデ」だと知ったとき、悲しみと幸福は同じものなのかも知れないと思ったのはつい最近のことだった。
HPのしてんてん
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