
これによると、かつて京町本町筋は両側に二階建ての町屋が並んでいたことから「二階町」と呼ばれていたという。また、寛永9年(1632)に加藤氏に替わって熊本に入った細川忠利公が、二階建ての町屋が建ち並ぶ京町本町筋を見て「二階町」と呼んだことも紹介されていた。当時はまだ二階建ての町屋は珍しかったらしい。
下の絵図は、忠利公の入国からまだ20年ほどしか経っていない細川綱利公の時代、1650年頃の京町絵図である。京町を新堀から出町の番所へと南北に貫く本町筋(豊前街道)のうち、赤い線の両側に町屋が建ち並んでいた。ここの町人たちはもともと加藤清正公が熊本城を築城する前、藤崎八旛宮(今の藤崎台球場の所にあった)の門前町として栄えた古京町に住んでいた人々。既にある程度の資産を形成していた層だったようだ。京町は江戸時代末期までは熊本城下の北側に位置する侍町および商業地として繁華を維持していた。しかし、明治維新となり、京町遊郭のあだ花はあったものの、神風連から西南の役へと続く戦火に見舞われ、町の大半が灰燼に帰した。
父の教員仲間だったI先生がまだ熊本師範の学生だった昭和10年に、町の長老たちの話などをまとめた「京町の研究」レポートが残っている。それによれば、明治以降、国道として自動車などの重要な交通路となった本町筋は素通りするようになり、衰退し始めた。さらに、上熊本駅から段山へ向かう平坦道路もでき、わざわざ京町台へ登らずとも熊本市中心部へ行けるようになったことも衰退に拍車をかけた。一方、下の絵図の青い線で示す裏京町は、京町台西側に居住者が多かったこともあって多くの商店ができた。昭和10年の調査時点での店舗数は本町筋の12に対し、裏京町は38と、実に3倍以上の数となっている。今ではその裏京町もすっかり寂れてしまい、かつての繁栄の面影は見出せない。
そんな京町にあって、寛政4年(1792)創業の池田屋醸造のみが本町筋のかつての二階町の栄華の名残りをとどめている。
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