津々堂さんのブログ「津々堂のたわごと日録」の昨日の記事に、京町の観音坂のことが書いてあった。記事には参勤交代のルートだった豊後街道の観音坂の勾配のきつさについて書かれていた。「観音坂が急な坂で約170メートルほどの水平距離で18メートルほど下っている(10.6%)。京町拘置所の所から下り始め、内坪井の丹後寺前あたりで勾配が終わるのだが、実際歩いてみると相当な勾配を感じ、御駕籠などどうやってかついのだろうかと不思議でならない。」とあった。
僕はこの坂を散歩でよく登り下りするので、その都度、参勤交代は大変だったに違いないと思う。そして必ず思い出すのが、万延元年(1860)10月、肥後熊本藩の第11代藩主 細川韶邦公の初入部を描いた行列図(大分県鶴崎剣八幡所蔵)のことだ。 江戸から下りの道中を描いた絵なので、この坂を登ることになる。行列図には、細川家御用達の山鹿屋が差配する褌一丁の人足たちが観音坂下で一服している様子が描かれている。人足がかつぐ九曜の御紋の青い布で覆われた銀櫃は、江戸から50日以上の長い道中の膨大な経費で、もう軽くなっていたかもしれない。最後のひとふん張りでこの坂を登ればゴールはもうすぐだ。
今日ではビルが建て込み景観が損なわれてしまったが、この絵が描かれた150年前の風景は素晴らしいものだったに違いない。左手に天守閣を望み、右手には緑に覆われた京町台地が広がり、後ろを振り返ると城下町の向こうに阿蘇の山々を望み、そして観音坂を登り切ると金峰山を始めとする西方の山々が展開していた。できるものなら一度でいいから、その時代にタイムスリップし、ホンモノの「時代絵巻」を観てみたいものだ。
僕はこの坂を散歩でよく登り下りするので、その都度、参勤交代は大変だったに違いないと思う。そして必ず思い出すのが、万延元年(1860)10月、肥後熊本藩の第11代藩主 細川韶邦公の初入部を描いた行列図(大分県鶴崎剣八幡所蔵)のことだ。 江戸から下りの道中を描いた絵なので、この坂を登ることになる。行列図には、細川家御用達の山鹿屋が差配する褌一丁の人足たちが観音坂下で一服している様子が描かれている。人足がかつぐ九曜の御紋の青い布で覆われた銀櫃は、江戸から50日以上の長い道中の膨大な経費で、もう軽くなっていたかもしれない。最後のひとふん張りでこの坂を登ればゴールはもうすぐだ。
今日ではビルが建て込み景観が損なわれてしまったが、この絵が描かれた150年前の風景は素晴らしいものだったに違いない。左手に天守閣を望み、右手には緑に覆われた京町台地が広がり、後ろを振り返ると城下町の向こうに阿蘇の山々を望み、そして観音坂を登り切ると金峰山を始めとする西方の山々が展開していた。できるものなら一度でいいから、その時代にタイムスリップし、ホンモノの「時代絵巻」を観てみたいものだ。
「熊本城下の坂」の話ですか。興味津々です。ぜひまたブログでご紹介願います。
尋常じゃない寒さですので、おからだにはくれぐれもお気を付けください。