徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

北川愛菜 南九州高校総体初優勝!

2014-06-16 13:35:34 | スポーツ一般
 高校総体陸上の南九州大会最終日が15日、沖縄市陸上競技場で行われ、北川愛菜(熊本学園大付)が女子200mで優勝、南九州大会初優勝を飾った。向かい風2.5mのためか自己ベスト更新はならなかったが、昨年の5位入賞から一気にジャンプアップ。九州では力のあるスプリンターの一人に成長したことを証明した。しかし、彼女が今後、全国高校総体の入賞を目指すならば、100mのスピードアップが不可欠。現在の、レース終盤に体力にものを言わせて勝負をつける走り方を、前半からトップスピードに乗って一気に走り切る走法に変えなければならないだろう。そうしなければ入賞ラインの24秒5あたりのレベルには届かない。彼女はそれを実現するポテンシャルを秘めていると信じている。

※右の写真は熊日新聞より




▼昨年、熊本で行われた南九州高校総体で5位入賞した北川愛菜

「花燃ゆ」 の世界

2014-06-15 21:30:21 | 歴史
 過去住んだことのある町の情報というのは何年経っても気になるもので、時々、ネットで公開されている市町村の広報をチェックしたりしている。昨日も防府市の広報を覗いていたら、来年のNHK大河ドラマ「花燃ゆ」の情報が載っていた。なんでも井上真央演じるヒロインの文と大沢たかお演じる2番目の夫、楫取素彦の墓は、防府市の大楽寺にあるらしい。実は、以前にもこのブログに書いたことがあるが、36年ほど前に住んでいた防府市石ヶ口の社宅の目と鼻の先に桑山(くわのやま)という小高い山があり、その麓にあったのが大楽寺だった。まだ小さかった息子たちを連れてよく桑山に登ったものだが、中腹には高杉晋作ら志士たちを支えた野村望東尼(のむらもとに)のお墓があった。寺のそばには望東尼の終焉の屋敷もあったし、周辺にはドラマにも出てきそうなゆかりの史跡がいろいろあるようだ。このドラマが急に身近なものに感じられてきた。ちなみにこの大楽寺には夭折した美人女優・夏目雅子のお墓もある。

※画像をクリックすると大きなサイズで表示します





ヘンリー・マンシーニ

2014-06-14 21:52:01 | 映画
 ネット上のカレンダーを見ていたら、今日はアメリカの映画音楽家ヘンリー・マンシーニの没後20年にあたることに気付いた。
 僕は幼い頃から自他ともに認める映画少年で、映画音楽にも早くから興味を持っていた。クレジットでは監督の次に音楽に注目した。アルフレッド・ニューマン、ディミトリ・ティオムキン、ヴィクター・ヤング、エルマー・バーンスタイン、バーナード・ハーマン、マックス・スタイナー等々。そんな大御所たちの音楽に慣れ親しんでいた頃、ちょうど高校に入学した60年代の初めだったが、都会的でとても新しい感覚の映画音楽を聞くようになった。それがヘンリー・マンシーニだった。「ティファニーで朝食を(1961)」、「ハタリ!(1961)」、「酒とバラの日々(1962)」、「シャレード(1963)」、「ピンクの豹(1963)」、「暗闇でドッキリ(1964)」、「グレートレース(1965)」、「アラベスク(1966)」等々。僕の映画音楽の概念を変えたと言ってもいい。さらに驚いたのは、アメリカの都会的なマンシーニのイメージをガラッと変えた「ひまわり(1970)」。彼がイタリア系であることを再確認させられた。そんなマンシーニの代表作と言ってもいい次の2曲をピックアップしてみた。




“ザ・わらべ”の師匠のすご技(その2) ~ まかしょ ~

2014-06-13 22:45:43 | 音楽芸能
 1年ほど前、“ザ・わらべ”や“こわらべ”のお師匠さんである中村花誠先生の日本舞踊家時代の映像「舌出し三番叟」を YouTube にアップしたところ、その“すご技”に多くの方々から反響があった。
 このほど再び、今村孝明さんを通じて別の演目の映像をご提供いただいたのでさっそくご紹介したい。今回の演目は「まかしょ」。この演目も古典中の古典で「寒行雪姿見(かんぎょうゆきのすがたみ)」というのが正しい曲名だが、唄い出しが「まかしょ まかしょ まいてくりょ」という文句なので俗にこれを「まかしょ」という。
 江戸時代、「まかしょ、まかしょ」と叫びながら絵を刷り込んだ小さい紙片をまき散らし、寒参りの代参をすると称して江戸市中をめぐり歩き、門付などを行なった願人坊主(がんにんぼうず)の姿が舞踊化されたもの。「まかしょ」というのは「撒きましょう」を縮めた言葉。

花誠先生については何度かこのブログでご紹介したことがあるが、再度かいつまんでご紹介しておきたい。

◇中村花誠(なかむらかせい):邦楽演奏家 兼 日本舞踊家

熊本市出身。祖母の影響で幼い頃から日本舞踊を始める。藤間流・藤間勢珠氏に師事し、15歳で名取となる。また、このころからお囃子(鳴物)を中村流・中村壽誠氏に師事、平成8年中村流師範となる。鳴物師と舞踊家の両方の顔を持つ異色の存在。精力的に日本舞踊および邦楽の発展と啓蒙普及に努めている。平成12年に立ち上げた少女舞踊団「ザ・わらべ」は実力と人気を兼ね備えた芸能集団に育ち、各地のイベントに引っ張りだこである。


【長唄 まかしょ】
まかしょ、まかしょ、まいてくりょ
まつか諸方の門々に、無用の札も何のその、構馴染の御祈祷坊主
昔かたぎは天満宮、今の浮世は色で持つ、野暮な地口絵げばこから、
引田してくる酒の酔、妙見さんの七つ梅、不動のお手の剣菱の、ぴんと白菊花筏
差すと聞いたら思う相手に、あほッ切、あふる手元も足元も、雪を凌いで来りける
君を思えば筑紫まで、翅なけれど飛梅の、すいが身を食う此の姿
一寸お門に佇みて、とこまかしてよいとこなり、ちょっとちょぼくる口車
春の眺はナア
上野飛鳥の花も吉原、花の中から
花の道中柳腰、秋は俄にナア、
心も浮々、浮れ烏の、九郎助稲荷の、角の長屋の年増が目に付き、
ずっと上ってむ、門の戸ぴっしゃり
しまりやすぜ
あれあの声を今の身に、思い浅黄の手ぬぐいに
紅の付いたが腹が立つ、そこを流しの神おろし
奇妙頂来敬って白す、夫日本の神々は、伊勢に内外に二柱、夫婦妹背の盃も、済んで初会の床浦明神、
哀愍納受一じゅう礼拝
屏風の外に新造が、祭も知らずねの権現、繻子の隙間洩る風は、遣手に忍ぶ明部屋の、
小隅に誰を松の尾明神、地色は坂本山王の、
廿一二が客取盛り、間夫は人目をせき明神、奇妙頂来懺悔懺悔、六根罪障
拗ねて口説を四国には、中も丸亀名も高き、象頭山、今度来るなら裏茶屋で、愛愍納受と祈りける
其御祈祷に乗せられて、でれれんでれれん口法螺を、吹風寒き夕暮に、酒ある方を尋ね行く行く

錦坂(にしきざか) ~ 紅燈艶かしい京町遊郭の名残り ~

2014-06-13 16:47:56 | 歴史
 父の教員仲間だったI先生が師範学校生時代の昭和10年に著した京町についての研究レポートがある。各種文献や地区の長老の話などをまとめたものであるが、その中にこんな記述がある。

 商業都市としての京町の本通りには遊郭が生じて、今の加藤神社(新堀)の所は坪井川の河江の港として、天草、島原よりの薪船等が、百貫の港のようにどんどん港付し、一つの港町として栄えたのである。ゆえに港町にふさわしい遊郭ができるのももっともである。

 明治7年に加藤神社が城内から新堀の錦山に遷座した時、下を流れる坪井川の舟客が錦山の神社に登るために付けられたのが錦坂なのである。そして明治10年までのわずか3年余の間、京町・新堀は遊郭の町となった。
 僕が幼稚園の帰り道のルートの一つであった昭和25年頃の錦坂周辺は、すでに坪井川は付替えられ、新堀は上熊本-藤崎宮間の電車が走り、港町の痕跡はどこにも見当たらなかったのである。

※京町に遊郭ができた経緯については下の文章をご参照ください



▼明治7年、新堀に遷座した頃の加藤神社(錦山神社)と手前の磐根橋


▼新堀に遷座した頃の磐根橋と門前町


▼現在の錦坂と旧坪井川(暗渠化)と錦橋


▼現在の磐根橋


▼現在の旧新堀町


▼現在の京町1丁目本通り


▼京町に遊郭ができたワケ(紅燈夜話:大正14年発行より)
 坪井立町の三浦栄次という人が慶応年間に京町1丁目に「ゆくとせ」という料理屋を開業した。それが時流に乗り、明治4年の廃藩置県が施行されると当時、二の丸にあった八代松井家のお茶屋「一日亭」の払い下げを受けた。そしてそれを新堀町に移築し、「一日亭」そのままの名前で営業を続けた。さすが松井家のお茶屋だっただけにその風格ある店構えに、地位ある人々の行楽の場所となった。「ゆくとせ」時代から抱えていた多くの芸者に加え、「一日亭」となってからも新たな芸者が加わり大いに人気を集めた。それと相前後して、船場にあった「うろこ」という飲食店が同じく新堀に移り、「鱗開楼」という料亭を開業した。ここは一風変わっていて、西洋料理を食べさせるなど当時の人々の興味をそそった。また「一日亭」と同じく10数名の芸者が艶を売るという具合で、一流の料亭として高級官僚など著名人を顧客として繁盛を極めた。
 その頃、町中の小料理屋にも町芸者を抱えていて紅燈緑酒の様を呈していたが、一方では私娼、売女の群が、徳川太平の世になれて、維新後に及んでも益々蔓延っていた。明治政府は先進諸国にならい、私娼を一ヶ所に集めた公営遊郭の必要性に迫られた。明治7年、菊川喜太八という人が願主となって遊郭設置の請願を行ない、許されて初めて熊本に遊郭が誕生することになった。初代の熊本県令安岡良介の時である。当時の達示によるとその区域は新堀、京町1・2丁目に限るということであった。新堀、京町が指定されたのは町が劃然と一つの区画として整っていたこと。加えて、「一日亭」、「鱗開櫻」などによって既に花街の体をなしていたこともあった。当時店を張った妓楼は清川楼、玉川楼、新玉、満月、東雲楼、泉屋、ぬしや、浪花亭などがあり、さらに次々と増え20余軒に及んだ。東雲、清川、満月などの大店といわれる店には17・8人から25・6人、小店でも7・8人からの女を抱えていた。
 こうしてぼんぼりの灯影なまめかしい遊里となった京町には幾多の艶話哀話が生まれた。芸妓瀧次と相場師天満屋卯平との恋物語、種田少将の愛妾小勝の義侠心その他多くの語り草を残している。明治9年神風連の乱の際、襲撃を受けた熊本鎮台の聨隊長輿倉中佐は「一日亭」に入り込み髭を剃り落し、使用人の法被を纏って姿を消したという逸話もある。
 全盛を誇った京町の廓、丸3年の栄華の夢も明治10年の西南の役で焼けて灰燼に帰した。その後、京町の遊廓の存続について関係者の間で協議されたが、地域住民とのトラブルも絶えなかったことなどから断念し、その内、二本木及び迎町に限って遊廓地の許可を乞う申請があり、同年の冬、時の県令富岡敬明は、当時畑地であった二本木一帯に公娼地の許可をした。ここには京町から移って来たものや新たに開業するものなどもあり、曲折を経ながら西日本屈指の遊郭として繁栄して行った。

大河ドラマ「花燃ゆ」 と 「品川甚句」

2014-06-12 17:27:27 | 歴史
 来年のNHK大河ドラマ「花燃ゆ」に熊本出身の俳優・高良健吾が高杉晋作の役で出演すると今朝の熊日新聞に載っていた。このドラマは吉田松陰の妹・文をヒロインとしたドラマで長州藩の尊王攘夷の志士たちが大勢登場するという。記事を読みながら、ふと「品川甚句」のことを思い出した。
 江戸四宿の中で東海道の最初の宿場として栄えた品川宿は、幕末の頃、高杉晋作や久坂玄瑞ら長州藩の志士たちが逗留していて、御殿山焼き討ち事件などを起こしたことが知られている。日本映画史上に残る名作として知られる川島雄三監督の「幕末太陽伝」は品川宿における長州藩士を描いていた。
 その品川宿で盛んに歌い踊られたのが「二上り甚句」。そしてそれはいつの頃からか「品川甚句」となっていった。この「品川甚句」の面白いところは、歌詞に「・・・ちょる」という長州言葉が使われていることだ。江戸の宿場で長州言葉。作者不詳ではあるが、明らかに唄が生まれたところに長州藩士の影を感じさせるのだ。ただ、歌詞を読んでみると若干の揶揄を込めているようにも感じられるのだが。




▼品川甚句



牛縊坂(うしくびりざか)

2014-06-11 20:53:06 | 熊本


 わが町、京町は坂の町で周囲は上の図のように坂だらけといった感がある。このブログでも今までほとんどの坂を紹介してきたが、「牛縊坂」は今日では坂というイメージがないので取り上げなかった。京町2丁目で旧国道3号線(豊前街道)と交差しているのが「牛縊坂」で宇土小路や金峰山町の方から東に向かって緩やかに登っている。僕らの子供の頃までは旧3号線が現在のような緩やかなS字カーブではなく、加藤清正の時代に造られたクランク状のままだったので、「牛縊坂」が坂であることがハッキリわかったものだ。
 「うしくびりざか」という名前は、城下に物資を運搬してきた牛馬をつないでおく場所だったことに由来するが、「縊(くび)る」というのは標準語の「首を絞める」という意味ではなく、熊本弁では「くくりつける」というような意味に転用している。下の写真は「牛縊坂」の坂下(西側)から坂上(東側)に向かって撮ったものだが、右前方の4階建てビルから右側(南側)一帯は江戸時代、仏厳寺の広大な敷地が広がっていた。



夏目漱石未発表の句

2014-06-10 22:19:33 | 文芸
死にもせで西へ行くなり花曇

 これは、明治29年、夏目漱石が熊本の第五高等学校に赴任する際、松山時代の同僚に宛てた手紙に添えた俳句である。つい先月、宛先の猪飼健彦さんの子孫の家で手紙とともに見つかったことがNHKニュースなどで報じられ話題となっている。118年の歳月を経ての新発見というのも驚きだ。
 この句は、新たな旅立ちの心境を詠んだものだろうが、ふと、どこかで聞いたような気がして調べてみた。
 松尾芭蕉の「野ざらし紀行」という俳諧紀行文の中に次の句が出てくる。

死にもせぬ旅寝の果よ秋の暮

 この「野ざらし紀行」というのは、芭蕉が40歳の頃、出身地である伊賀上野へ旅をした時の紀行文だ。「奥の細道」よりも前の作品である。「野ざらし」とはまた縁起の悪い言葉だが、芭蕉一流の自虐的な洒落を感じさせる。漱石はこの芭蕉の句が頭の中にあったのだろう。松山から東京へ帰るでもなく、さらに西下する自分の身の上を芭蕉の「野ざらし」になぞらえたのかもしれない。

ワールドカップ随想

2014-06-09 19:55:50 | スポーツ一般
 ブラジルワールドカップが目前に迫ってきた。思えば僕が世界のサッカーに目を向け始めたのは高校に入って水球を始めた頃だ。水球はサッカーから派生したスポーツ。だから戦術やプレーシステムなど参考になることが多い。常に水球に置き換えながらサッカーを見ていた気がする。サッカーのワールドカップに注目したのもその頃で、1962年のチリ大会あたりだが、日本のサッカーにとってはまだ遠い夢の世界。まだテレビ放送もなく情報はあまり入ってこなかった。次の1966年イングランド大会あたりからだいぶ映像で見ることができるようになった。そして1970年メキシコ大会からは今日とほとんど変わらないくらいにテレビ放送を見ることができるようになった。しかもカラー映像で。そのメキシコ大会で優勝したブラジルが史上最強だったと、僕は今でも思っている。王様ペレを始め、ジャイルジーニョ、トスタン、リベリーノ、ジェルソン、カルロス・アウベルトら、スーパースターたちが揃っていた。実は当時僕はイタリアの方が好きで、決勝でブラジルとイタリアが対戦した時は一生懸命イタリアを応援したものだ。でも負けるのはわかっていた。ファケッティやルイージ・リーバらが奮闘するのだがブラジルの壁は厚かった。この時のブラジルチームがもし、44年後の今大会に出てきたらいったいどんな試合をするだろう。妄想するだけでもワクワクする。


2014 日本陸上競技選手権大会

2014-06-08 20:15:05 | スポーツ一般
 今年度の日本陸上競技選手権大会も今日が最終日。僕が最も注目する男女の100m決勝が行われた。日本人初の9秒台が期待される桐生祥秀(東洋大)は記録よりも勝負に徹したようで10.22の記録で山縣亮太(慶応大)らを抑え、日本選手権初優勝。
 一方女子は福島千里(北海道ハイテクAC)が土井杏南(大東文化大)の追撃をかわし、200mと合わせ、4年連続2冠を達成した。

▼男子100m





▼女子100m



御田植祭 by ザ・わらべ

2014-06-07 16:07:06 | イベント
 今日、熊本市西区横手4丁目の熊本城稲荷神社神田地において「御田植祭」が行われた。今回、早乙女を務めたのは舞踊団花童のメンバー5名。神事では、五穀豊穣を祈る「三番叟」仕立ての舞踊「田の神」を奉納して豊作を祈った。その後、早乙女による御田植が行われたが、メンバーはいずれも田植初体験。ぬかるむ田圃に足を取られながらも楽しそうに植えていた。秋の収穫が楽しみだ。

おおさえ おおさえ よろこびありや よろこびびありや
わが このところより ほかへは やらじとぞ おもう



















越後獅子

2014-06-06 20:58:13 | 歴史
 江戸時代、越後の国(今の新潟県)月潟村に伝わる芸能「角兵衛獅子」を、上方や江戸の市中に出て来て見せていた大道芸人のことを「越後獅子」と呼んでいた。頭に獅子頭をかぶり、お腹にくくりつけた太鼓を打ちながら軽快に踊って見せた。また逆立ちやでんぐり返りのような軽業もして見せた。最大の見せ場は一本歯の下駄を履いて軽妙にリズムを刻みながら長い白布を振る「布晒し(ぬのさらし)」。この越後獅子を題材にした地歌、長唄、常磐津、歌謡曲そして歌舞伎舞踊がある。僕の子供の頃に流行した美空ひばりの「越後獅子の唄」は歌謡曲の中でも名曲中の名曲である。

※右の写真は「川尻をどり」の模様(HIROさん撮影)



細川ガラシャのドラマ化

2014-06-05 14:08:47 | 歴史
 今朝の熊日新聞に「細川ガラシャを大河ドラマに」という記事が載っていた。数年前からガラシャゆかりの京都府下の7市町が「ガラシャプロジェクト」なるものを進めていて、その最大の目標が大河ドラマ化であることは承知していたが、いよいよNHKに対して直接働きかけを始めたというわけか。記事によると熊本県と熊本市もオブザーバーとして働きかけに加わっているようだ。ドラマ化案ではガラシャの父・明智光秀や細川家初代の細川藤孝(幽斉)とガラシャの夫である細川忠興などが中心人物として登場するようだし、ガラシャの息子である肥後細川藩の初代藩主・細川忠利が祀った泰勝寺のガラシャ夫人廟もあり、熊本もゆかりの地であることは間違いない。
 というわけで熊本にとってもこれが実現すれば喜ばしいことには違いないが、どうしても引っかかることがある。それは熊本県民にとっての悲願である「加藤清正の大河ドラマ化」の行方のことだ。こちらの方も随分前から官民あげての運動を展開しているが、いまだに実現の可能性の話すら聞こえてこない。もし、「ガラシャのドラマ化」が先に実現した場合、「清正のドラマ化」はさらに遠のくのではないかという恐れすら感じる。大河ドラマがいつまで続くかわからないが、せめて生きているうちに「細川ガラシャ」も「加藤清正」も見てみたいものだ。



▼泰勝寺跡(熊本市)にある細川ガラシャ夫人廟と夫人愛用のつくばい



▼創作舞踊「細川ガラシャ」

「民謡 田原坂」伝承のために

2014-06-04 12:05:22 | 音楽芸能
 今朝の熊日新聞の「読者ひろば」投稿欄に本條秀美さんの投稿が掲載されていた。
 文面からは日本人の「こころの歌」とでもいうべき民謡や童謡が衰退しつつある現状を憂い、さらには存続が危ぶまれる植木町の「民謡 田原坂全国大会」の行方に対する本條さんの危機感がヒシヒシと伝わってくる。
 われわれ民謡ファンとしても、民謡伝承のために何か参画できることがあるのか考えなければならない。




5月18日、植木文化センターで行われた第17回民謡田原坂全国大会の模様



 唄 :本條秀美
三味線:本條秀太郎
舞 踊:植木町民謡田原坂保存会

幸山さんの12年

2014-06-03 12:42:59 | 熊本
 幸山政史熊本市長が次期熊本市長選に出馬しないことを表明し、3期12年続いた幸山市政があと半年で終わることになった。2002年の初出馬以来、僕は一貫して幸山さんを支持してきた。それはその2年前に他界した僕の父の遺言でもあると思っていたからだ。幸山さんのお父上は五町小学校(今の西里小学校)時代、僕の父の生徒で、卒業後も永い交流があり、今でも正月には賀状をいただいている。もし、父が生きていればおそらく積極的な応援をしただろう。そんなわけで僕も幸山さんを支持したのだが、最初の選挙の時は、相手が現職市長だった三角保之さんで、幸山さんにとって(僕にとっても)高校の大先輩であり、同窓会を二分したと聞く。また、二期目の選挙の際は、自民党が対立候補を立てて激しい選挙戦を展開した。僕はその頃、親戚の自民党市議の事務所に時々手伝いに行っていたが、激しい幸山市長攻撃にいたたまれず、手伝いに行くのをやめた。いろんなイベントなどで幸山市長を見かけることはあったが、ご挨拶をしたのは2007年3月、中国の馬頭琴奏者リポーさんのコンサートを開催した折、市庁舎への表敬訪問に付き添った時の1回きりだ。
 12年の幸山市政の政策には賛成しかねるものもあったが、「政令指定都市」や「熊本市再開発」、「観光振興」、「こうのとりのゆりかご」等々、間違いなく熊本市史に残るであろう熊本市の一つの時代が終ろうとしていることは間違いなく、万感胸に迫るものがある。
 

▼2011年10月1日「秋のくまもとお城まつり」における幸山市長


▼2010年8月8日「城華まつり(普賢寺)」では幸山市長と隣り合わせの席でザ・わらべの踊りを見る