徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

“ザ・わらべ”の師匠のすご技(その2) ~ まかしょ ~

2014-06-13 22:45:43 | 音楽芸能
 1年ほど前、“ザ・わらべ”や“こわらべ”のお師匠さんである中村花誠先生の日本舞踊家時代の映像「舌出し三番叟」を YouTube にアップしたところ、その“すご技”に多くの方々から反響があった。
 このほど再び、今村孝明さんを通じて別の演目の映像をご提供いただいたのでさっそくご紹介したい。今回の演目は「まかしょ」。この演目も古典中の古典で「寒行雪姿見(かんぎょうゆきのすがたみ)」というのが正しい曲名だが、唄い出しが「まかしょ まかしょ まいてくりょ」という文句なので俗にこれを「まかしょ」という。
 江戸時代、「まかしょ、まかしょ」と叫びながら絵を刷り込んだ小さい紙片をまき散らし、寒参りの代参をすると称して江戸市中をめぐり歩き、門付などを行なった願人坊主(がんにんぼうず)の姿が舞踊化されたもの。「まかしょ」というのは「撒きましょう」を縮めた言葉。

花誠先生については何度かこのブログでご紹介したことがあるが、再度かいつまんでご紹介しておきたい。

◇中村花誠(なかむらかせい):邦楽演奏家 兼 日本舞踊家

熊本市出身。祖母の影響で幼い頃から日本舞踊を始める。藤間流・藤間勢珠氏に師事し、15歳で名取となる。また、このころからお囃子(鳴物)を中村流・中村壽誠氏に師事、平成8年中村流師範となる。鳴物師と舞踊家の両方の顔を持つ異色の存在。精力的に日本舞踊および邦楽の発展と啓蒙普及に努めている。平成12年に立ち上げた少女舞踊団「ザ・わらべ」は実力と人気を兼ね備えた芸能集団に育ち、各地のイベントに引っ張りだこである。


【長唄 まかしょ】
まかしょ、まかしょ、まいてくりょ
まつか諸方の門々に、無用の札も何のその、構馴染の御祈祷坊主
昔かたぎは天満宮、今の浮世は色で持つ、野暮な地口絵げばこから、
引田してくる酒の酔、妙見さんの七つ梅、不動のお手の剣菱の、ぴんと白菊花筏
差すと聞いたら思う相手に、あほッ切、あふる手元も足元も、雪を凌いで来りける
君を思えば筑紫まで、翅なけれど飛梅の、すいが身を食う此の姿
一寸お門に佇みて、とこまかしてよいとこなり、ちょっとちょぼくる口車
春の眺はナア
上野飛鳥の花も吉原、花の中から
花の道中柳腰、秋は俄にナア、
心も浮々、浮れ烏の、九郎助稲荷の、角の長屋の年増が目に付き、
ずっと上ってむ、門の戸ぴっしゃり
しまりやすぜ
あれあの声を今の身に、思い浅黄の手ぬぐいに
紅の付いたが腹が立つ、そこを流しの神おろし
奇妙頂来敬って白す、夫日本の神々は、伊勢に内外に二柱、夫婦妹背の盃も、済んで初会の床浦明神、
哀愍納受一じゅう礼拝
屏風の外に新造が、祭も知らずねの権現、繻子の隙間洩る風は、遣手に忍ぶ明部屋の、
小隅に誰を松の尾明神、地色は坂本山王の、
廿一二が客取盛り、間夫は人目をせき明神、奇妙頂来懺悔懺悔、六根罪障
拗ねて口説を四国には、中も丸亀名も高き、象頭山、今度来るなら裏茶屋で、愛愍納受と祈りける
其御祈祷に乗せられて、でれれんでれれん口法螺を、吹風寒き夕暮に、酒ある方を尋ね行く行く

錦坂(にしきざか) ~ 紅燈艶かしい京町遊郭の名残り ~

2014-06-13 16:47:56 | 歴史
 父の教員仲間だったI先生が師範学校生時代の昭和10年に著した京町についての研究レポートがある。各種文献や地区の長老の話などをまとめたものであるが、その中にこんな記述がある。

 商業都市としての京町の本通りには遊郭が生じて、今の加藤神社(新堀)の所は坪井川の河江の港として、天草、島原よりの薪船等が、百貫の港のようにどんどん港付し、一つの港町として栄えたのである。ゆえに港町にふさわしい遊郭ができるのももっともである。

 明治7年に加藤神社が城内から新堀の錦山に遷座した時、下を流れる坪井川の舟客が錦山の神社に登るために付けられたのが錦坂なのである。そして明治10年までのわずか3年余の間、京町・新堀は遊郭の町となった。
 僕が幼稚園の帰り道のルートの一つであった昭和25年頃の錦坂周辺は、すでに坪井川は付替えられ、新堀は上熊本-藤崎宮間の電車が走り、港町の痕跡はどこにも見当たらなかったのである。

※京町に遊郭ができた経緯については下の文章をご参照ください



▼明治7年、新堀に遷座した頃の加藤神社(錦山神社)と手前の磐根橋


▼新堀に遷座した頃の磐根橋と門前町


▼現在の錦坂と旧坪井川(暗渠化)と錦橋


▼現在の磐根橋


▼現在の旧新堀町


▼現在の京町1丁目本通り


▼京町に遊郭ができたワケ(紅燈夜話:大正14年発行より)
 坪井立町の三浦栄次という人が慶応年間に京町1丁目に「ゆくとせ」という料理屋を開業した。それが時流に乗り、明治4年の廃藩置県が施行されると当時、二の丸にあった八代松井家のお茶屋「一日亭」の払い下げを受けた。そしてそれを新堀町に移築し、「一日亭」そのままの名前で営業を続けた。さすが松井家のお茶屋だっただけにその風格ある店構えに、地位ある人々の行楽の場所となった。「ゆくとせ」時代から抱えていた多くの芸者に加え、「一日亭」となってからも新たな芸者が加わり大いに人気を集めた。それと相前後して、船場にあった「うろこ」という飲食店が同じく新堀に移り、「鱗開楼」という料亭を開業した。ここは一風変わっていて、西洋料理を食べさせるなど当時の人々の興味をそそった。また「一日亭」と同じく10数名の芸者が艶を売るという具合で、一流の料亭として高級官僚など著名人を顧客として繁盛を極めた。
 その頃、町中の小料理屋にも町芸者を抱えていて紅燈緑酒の様を呈していたが、一方では私娼、売女の群が、徳川太平の世になれて、維新後に及んでも益々蔓延っていた。明治政府は先進諸国にならい、私娼を一ヶ所に集めた公営遊郭の必要性に迫られた。明治7年、菊川喜太八という人が願主となって遊郭設置の請願を行ない、許されて初めて熊本に遊郭が誕生することになった。初代の熊本県令安岡良介の時である。当時の達示によるとその区域は新堀、京町1・2丁目に限るということであった。新堀、京町が指定されたのは町が劃然と一つの区画として整っていたこと。加えて、「一日亭」、「鱗開櫻」などによって既に花街の体をなしていたこともあった。当時店を張った妓楼は清川楼、玉川楼、新玉、満月、東雲楼、泉屋、ぬしや、浪花亭などがあり、さらに次々と増え20余軒に及んだ。東雲、清川、満月などの大店といわれる店には17・8人から25・6人、小店でも7・8人からの女を抱えていた。
 こうしてぼんぼりの灯影なまめかしい遊里となった京町には幾多の艶話哀話が生まれた。芸妓瀧次と相場師天満屋卯平との恋物語、種田少将の愛妾小勝の義侠心その他多くの語り草を残している。明治9年神風連の乱の際、襲撃を受けた熊本鎮台の聨隊長輿倉中佐は「一日亭」に入り込み髭を剃り落し、使用人の法被を纏って姿を消したという逸話もある。
 全盛を誇った京町の廓、丸3年の栄華の夢も明治10年の西南の役で焼けて灰燼に帰した。その後、京町の遊廓の存続について関係者の間で協議されたが、地域住民とのトラブルも絶えなかったことなどから断念し、その内、二本木及び迎町に限って遊廓地の許可を乞う申請があり、同年の冬、時の県令富岡敬明は、当時畑地であった二本木一帯に公娼地の許可をした。ここには京町から移って来たものや新たに開業するものなどもあり、曲折を経ながら西日本屈指の遊郭として繁栄して行った。