新潟県の角田山沖15キロの海底から、縄文中期(五千~四千年前)の東北型の土器が底引き網で引き上げられたと新潟日報12月21日の朝刊に出ていて興奮した。
新潟日報記事より転記した、引き揚げられた東北型の縄文土器
この土器の発見は、縄文時代の海上交通の実態に色々な示唆を与えてくれている。
縄文人が乗った丸木舟が、陸から15キロも離れた沖合を航海中に沈没したか、何らかの理由で故意に縄文土器を海に沈めたのか、または誤って落としたという可能性だ。
土器が故意にしても不可抗力で海に沈んだのかの理由は別として、つまり対馬海流を利用して航海していた可能性があるということだ。
別の可能性としては、沿岸航海中にダシの風で(新潟市近辺の漁師言葉で、陸から海に吹く南風)、沖合まで流されて転覆した等・・・。
因みに糸魚川の漁師言葉は、南寄りの風はダシとは言わず、ジモンと言う。
漢字表記すれば地物(ジモン)、つまり陸から吹く南西の風という意味で、逆の北東の風はアイノカゼ(会いの風)と表現する・・・と知人の漁師から教わった。
アイノカゼを「愛の風」と文学的な表記をする人もいるが、これは近代になってから文化人あたりが当て字したのだろうと思う。
陸から吹くジモンの風と対になった、陸(オカ)に出会う風という意味が本来だと思う。
狩猟民の符丁はそのまんまの直接的表現が多いし、陸に残した家族に会えるから「愛の風」という概念は、昔の日本人は持ってなかっただろうと思うのだ。
そもそも愛という言葉自体が、江戸時代以前の日本人が現在と同じ意味で使っていたとは思われないし、恐らく明治以後にLOVEという英単語を翻訳して使われるようになった言葉ではないだろうか?
脱線してしまったが、本題に戻る。
これまで完全な形で出土している縄文時代の丸木舟は、単材刳り舟のみだ。
つまり一本の丸太を刳り抜いた単体の船体を持つ丸木舟だ。
福井県の三方五湖出土の縄文前期(六千~五千年前)の丸木舟。
丸木舟というよりは、前近代のハワイの王族用サーフボードやSUP(スタンドアップ・パドル・ボード)を連想してしまう浅い船体が特長で、長野県の野尻湖からも平安時代と思われる同様な丸木舟が出土している。
出土丸木舟の寸法は長さ6m×横幅0.7m×深さ0.2m程度だから、とても外海の航海には耐えられそうもなく、湖水や内海用と推測されている。
外洋航海用と推測されている丸木舟は、残念ながら福井県の浦入遺跡から出土した、底だけが残っている推定全長8m×横幅1mの丸木舟のみ。
俺は糸魚川ヒスイが青森まで海上ルートで丸木舟により運び込まれていたという学説を検証する目的で、日本海縄文カヌープロジェクトの活動をしている。
これまで二隻の丸木舟を作ったが、俺は海で丸木舟を使うので船底から船首までの高さを一隻目の小滝丸で40㎝強、二隻目の明星丸で60㎝弱と出土品より深めに作った。
単体胴だと少しでもウネリがあると転覆してしまうので、二隻ともダブルアウトリガーカヌーにして安定性を確保している。
しかし小滝丸の場合は、縄文丸木舟に近い船型であるロッカー(船底のカーブ)が直線的で船首・船尾とも船縁と同じラインに作ったから、波高1mもあるとウネリが船首や船尾から入ってきてとても危険だ。
沖合で完全な水船になって慌てて船から飛び降りて水を掻き出したことさえある。
船首から船尾までが直線的な船型の小滝丸(全長4・6m)
明星丸はその反省から、ローッカーにバナナ状の反りを持たせて船首も船縁から徐々に高くなる工夫をしたので、ウネリを超える稜波性は改善された。
全長5.5mの明星丸は、沖縄の小型木造漁船サバニに似せた船型だから、ウネリに強い。
そんな訳で、俺は出土した丸木舟の形状と寸法の通りだと、沖合に出ることも長距離航海をすることも大変に危険だと考えている。
だから出土品のままだと穏やかな海況の沿岸航海しかできないのではないかと実感しているのだ。
ところがだ、糸魚川ヒスイが800キロも海を渡って青森まで運ばれたのは、対馬海流を利用していたから簡単!という説もあるのだ。
確かに佐渡の漁師は、対馬海流に乗って青森まで五日しかかからなかったという民俗例は俺も知っている。
しかしそれは近代の和船での話しで、しかも佐渡からなら対馬海流に乗るには本州を目指せば簡単に乗れるだろう。
対馬海流は本流が時速2キロで北上する海流だが、陸地が見えるくらいの本州沿岸でその影響を感じることは無いだろう。
特に新潟県でも糸魚川市から上越市くらいまでは、能登半島の影響で対馬海流が沖合を流れているために、漁師ですら対馬海流を実感することは無いのである。
これまで実験してきて、ある程度の訓練を積んだ漕ぎ手なら、丸木舟による長距離航海の平均速度は時速5キロ前後という結果を持った。
本州から対馬海流に乗ることを考えれば、沖合10キロ以上は離れないと無理だと思うが、平均時速5キロで沖合を目指しても2時間もかかってしまう。
その間に海が荒れたら、単材刳り船だと相当に危険だ。
佐渡の漁師が青森までの航海に使ったのは小型の手漕ぎ和船らしいが、それでも横幅が一間(1.82m)は優に超えるだろうから、単材刳り船の丸木舟とは安定性はまるで違うし、刳り船と構造船でも重量は雲泥の差がある。
だから俺としては、出土品のままの丸木舟なら沿岸航海をしていたと思う。
対馬海流を利用していたなら、アウトリガーを付けるか、双胴船にしていた可能性があると思う。
もしくは外海用の丸木舟には、サバニや現役で活躍するインドネシアからポリネシア海域の丸木舟のように、船首・船縁・船尾に別部材で嵩上げした準構造船にしていたのではないかと推測している。
それはやってみなければ分らない・・・四の五の言わんとやってみさっしゃい!と、勇敢な漁師だった叔父から言われそうだ。