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バタバタ茶の茶筅作り名人、内藤さんが逝った・・・内実ある人生

2013年12月22日 15時57分28秒 | 記録しておきたいヒト・モノ・本・映画




12月20日の寒い夜、内藤操さんという近所に住む老人がひっそりと逝った。

内藤さんは根知区の山奥の出身で、10年くらい前に高齢化のために山間部で暮らすことができなくなって市街地に引っ越してきた人。

糸魚川市の山間部では雪が4mも積もるから、お年寄りが暮らすには過酷な地域であり平野部に越してくる人が多いのだ。

我が家では近所に知人が少ない内藤さんをお茶に招いたり、親父が週に一度は近所の温泉に連れて行ったりしていた。



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注連縄作りを教える在りし日の内藤さん。

 

話変わるが、糸魚川市とお隣の富山県朝日町市には「バタバタ茶」という振り茶の文化が残っている。

同様の振り茶文化は、島根県の「ボテボテ茶」と沖縄の「ブクブク茶」があるが、それぞれ少しづつ違っている。

糸魚川市と朝日町市のバタバタ茶は、中世に浄土真宗の布教活動の一環として蓮如上人が広めていったらしい。

庄屋や地主などの富裕層の家を拠点にして、「今晩、オラとこで偉い坊様が有難い話しを聴かせてくれるケン、お茶でも飲みに来ない!」といった感じだろう。

カワラケツメイなどから作った自家製のお茶を煮込んで、塩を少し入れてから茶碗に注いだ後に茶筅でバタバタと泡立てからお客さんに振舞うのがバタバタ茶だ。

茶筅は、夫婦茶筅という二本連結式の変わった茶筅を使う。

糸で内側と外側に茶筅を分ける二重構造の普通の茶筅と違って、先端まで薄く削った一重構造のもっと柔かい茶筅だ。

カワラケツメイに含まれるサポニンが夫婦茶筅でバタバタと振られて泡つのだそう。

糸魚川市にはバタバタ茶を保存する会があるが、もう誰も作り手がいなくなってしまったバタバタ茶用の夫婦茶筅を、手先が器用で何でも自分で作っちゃう内藤さんに頼んで復活して貰ったらしい。

以後は観光物産センターでも内藤さんの夫婦茶筅が買えるようになった。


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内藤さん手作りの夫婦茶筅。
富山でも作っているらしいが、それはホームセンターで売っている白竹製で、工作精度は高くないが、内藤さんは自分で伐採して枯らした根曲がり竹から作っており、工作精度は精密だった。

根曲がり竹(千島笹)は、縄文の昔から雪国の竹細工に使われてきた粘りのある竹だ。

信じられないことに、これ程までに完成度の高いハンドメイド品を糸魚川の観光物産センターの責任者は、「3,000円以上じゃ売れないから一本2,300円で作ったら売ってやるわね!」と恩着せがましく頼んでいたらしい。

観光土産屋が茶筅を安売りしてどうしようというのか?

糸魚川の顔たる玄関口で売るべきは安い茶筅じゃなくて、バタバタ茶の文化だろう!と、俺はその話を内藤さんから聞いた時に物凄く腹が立った。

手間暇だけ考えても一万円でも安いくらいの茶筅だと思う。


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これは棗ではなく、バタバタ茶に入れる塩の器。内藤さんは堅い竹でキッチリと作っていたが、俺ならここまでの精度が出せないし、一日で二個も作れないと思う。

これまた信じられないことに観光物産センターは、一個500円の値段を付けていた。

モノの価値を知らないということは不幸なことだ。



なんの知識もなく、独自の工夫だけで試行錯誤して作った内藤さんの夫婦茶筅は素晴らしい出来栄えだった。

茶筅作りは難しいし、竹の内側の白い部分を剥き取る独特の工程がある。

俺もお茶を習っていたことがあり、興味を持ったので自分で茶筅を作ったことがある。

その時は、池袋にある文化庁の民俗文化保存センターの映像記録を観て、奈良の高山茶筅作りの工程を学んだが、満足のいく出来栄えにはならなかった。

ところが内藤さんは、独自の工夫だけでその工程を完璧にこなしていたのだ。

内藤さんは口数が少なく何時もニコニコとした好々爺だったけど、木工や竹細工などの雑談をしていると経験者しか知らない具体的な問題解決法をサラっと答えてくれた。

例えば竹トンボ作り。

内藤さんの竹トンボは、薄く作った竹の板をライターで焙って捻る方式。

これは工業デザイナーの秋岡芳夫先生が考案して、「国際竹とんぼ協会」で教えているスタイルだが、この同じアイデアも内藤さんは独自に考案したという。


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国際竹とんぼ協会のスーパー竹トンボ。
何故、スーパーかというと、ナイフで削って作っただけの普通の竹トンボよりずっと軽量で精度が良いので、無風だと高度20~30mまで楽に飛ばせるからである。



内藤さんの話し振りから、この人は自分の体験だけを語る人であり、見ただけ、知っているだけの話しをしないホンモノのヒトだなあ・・・と感動した。

現代人の多くは知識は豊富だが、それはテレビで観て知っている、本で読んで知っているといったレベルで、体験を伴っていないことが多い。

知識に内実が無いのが現代人だが、内藤さんは違う。

内藤さんは戦時中は海軍の一式陸上攻撃機の整備員をしていたくらいだから、若い頃から利発で手先が器用だったんだろう。

当時の航空機整備員になるには、選抜された学業優秀の人材でも猛勉強しなければなれなかったと聞いている。

戦後は土木作業員を長くしていたらしいが、農業も含めてその日常は自らの手作りに満ちていた。

手で経験して、手で考えて、何でも自分で作り上げていった人生だ。

聞くところによると、家族運に恵まれない波瀾万丈の一生であったとのこと。

ゴツゴツと節くれだったモノ云わぬ内藤さんの手。

口にはできない程の、幾多の哀しみを乗り越えてきた人生だったらしい。

その手だけが知っている、哀しみに耐えてモノを作り続けてきた人生。

最後は老衰で昏睡状態が続いたので苦しまなかったと聞く。

内藤さんは人生の師匠の一人。

内藤操・・・享年八四歳
 

とても寂しい。

ご冥福をお祈りいたします。合掌!