書道家の臨書と同じく、遺物の臨作(複製)は操作願望や予定調和からの解放だ。型の中で無心に遊ぶ感じが心地よい。
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最近はやわらかい滑石で臨作。手本は弥生時代中期の宇木汲田遺跡出土の丁子頭勾玉。
今どきの日本人の多くは型という言葉に「型にはめるのはよくない」とマイナスイメージを持つが、日本の諸芸は型を学ぶことからはじまる。
型とは均一さや規格などではむろんなく、カタチそのものではない。型はカタチを生み出す原動力、内実の源泉と気づく。
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次に蛇紋岩で臨作。
「平成の大首飾り」で243点もの遺物の複製をさせてもらってから弥生時代の勾玉に魅了され、手本にしていた宇木汲田遺跡出土の丁子頭勾玉のつくり方を研究していたが、ついに蛇紋岩やヒスイの実物大つくりに成功した。
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そしてヒスイで臨作。以前の遺物モデルは光沢がでるまで研磨して艶消ししていたが、ここ最近は遺物のような半艶研磨でも切削傷なく整えられるようになった。遠回りしたプロセスがあってこそ。
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宇木汲田勾玉ブラザースの記念撮影w
しかし文化的な必然性があった往古と、現代では包含する重みがぜんぜん違うから、当時の勾玉と比べると我が勾玉はなんと浅薄なものよと打ちひしがれる。この自覚を昔の人は「型なし」と自嘲した。
この気付きの自覚こそが中級者のスタートライン。あたらしい気付きのたびに、その境地の初心者になる。
型を学び、独自の工夫を見出し、型から離れることを守破離(しゅはり)というが、臨作を重ねることが「型あって型なし」の境地への道筋ではないだろうか。ちょっと大人になった気分w