縄文人(見習い)の糸魚川発!

ヒスイの故郷、糸魚川のヒスイ職人が、縄文・整体・自然農法をライフワークに情報発信!

わたしがヤマサ醬油を贔屓にする訳・・・「稲むらの火」のモデルの濱口梧陵は「無私の日本人」だった

2025年01月08日 07時26分52秒 | 災害(輪島漆器義援金プロジェクト・ボランティア・サバイバル)

稲束に火をつけて、安政の地震の津波から避難させた「稲むらの火」のモデルの濱口梧陵(はまぐちごりょう)は、「無私の日本人」の典型のような人で、幕末から明治期に「一隅を照ら」しつづけた偉人だった。


絵本「稲むらの火」より

地震のあとの梧陵さんの獅子奮迅は「稲むらの火」の後もつづく。

私財をなげうち生活の糧を失った人々への生活支援をおこない、次いで津波対策と失業対策を兼ねた「広村堤防」の築造を幕府に願い出て独自に完成させている。

そんな奇特なことができたのは、梧陵さんがたぐい稀な商才と、窮民救済思想を併せもつ、ヤマサ醤油の7代目当主だったからで、わたしがヤマサ醤油を贔屓にする由縁だ。

晩年の梧陵さんは紀州藩の勘定奉行に抜擢され、維新後は和歌山県の大参事(副知事)、初代郵政大臣、初代和歌山県会議長jを歴任して、政治の世界でも活躍した

ヤマサの商標は、歴代当主が襲名する濱口儀兵衛の儀をカタカナにしたギを意匠化したもので、最初は山にキであったが、紀州藩の船印だかに似ていたためにキの字を横にした結果、山にサに見えたからヤマサになったなど諸説ある。傘の右上の上という文字は、江戸幕府から最上醤油の称号を授与されたことに由来する。

 

開業当初のヤマサは和歌山の味噌屋だったが、本家を銚子にうつして発展し、幕末には各地に支店をもつ大企業になった。梧陵さんは和歌山にのこった分家から本家の養子となった人物だから、「稲むらの火」は和歌山での逸話。ヤマサは歴代当主に傑物を輩出して現代に至る。

現在の貨幣価値で19億円相当もの費用と、4年の歳月をついやして完成させた「広村堤防」は、91年後の昭和の南海地震の津波から民草を護った。

劇画「JIN・仁」にも、ペニシリンの製造の資金と醸造場の提供をする人物として実名で登場するが、じっさいにはコレラの種痘の普及に尽力していて、「無私の日本人」ぶりは多岐にわたっている。



「広村堤防」は今も現存していて、写真で確認する限りでは、日本海沿岸に多い自然堤防のように見え、その涼やかな風景は国指定文化財に認定されている。

世のため人のために尽くしたこの篤志家は、「黒船来航」の際も、世界情勢を鑑みれば開国して貿易するのが得策とする提言書を幕府にだす先見性もあり、維新の元勲たちがかすんでしまうほど傑出した人物であったようだ。

梧陵さんが能登半島地震の復旧の現状や、首都圏直下型地震と南海トラフ地震の対策の見解を聞いてみたいものだが、お金持ちのAmazonやMetaも梧陵さんを見習ってほしいもんですな。

 

 



#無私の日本人 #濱口梧陵 #輪島漆器義援金プロジェクト #防災 #窮民救済 #稲むらの火 #ぬなかわヒスイ工房 #翡翠